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神煞章
「空」は「実」と相対し、「亡」は「有」と相対する。《神白経》にいう:「空亡の形態は多種多様であり、およそ十干が巡って到達しない位置を空と見なす。」《洞玄経》にいう:「遁行して窮まりの尽きるところにて亡が生じる。ゆえに甲旬の尽きる所を空亡と称する。」いわゆる「位ありて禄なき」ことを空という、すなわち地支は存在するが天干が臨まないことを指す。「支ありて干なき」ことを亡という、すなわち地支は存在するが天干が既に尽きていることを指す。たとえば甲子旬の中では、天干が遁行して酉に至りて十干が全て尽きる。よって戌・亥の二つの地支には天干が配されず、空亡となる。残りの五旬もこれに準じて推し量る。これが空亡の由来である。しかしながら、空の中に実があり、亡の中に存がある。それゆえに、空亡を見ただけで直ちに凶と断じることはできない。
⚖️ 空亡は中性の神煞に属するが、全体的には悪煞に偏る。もし吉神が空亡に落ちれば、その吉の性質は半減する(天乙貴人・天月二徳・学堂詞館が空亡に遭う場合など)。もし悪煞が空亡に落ちれば、その凶の性質も半減する(七杀・亡神・劫煞が空亡に遭う場合など)。したがって、空亡に逢う場合はすべて一律に凶とすることはできない。たとえば、本来七杀が身を克することが深刻であっても、七杀が空亡に臨めば、その克する力は低下する。本来亡神が身に臨んでいても、亡神が空に逢えば、その凶の性質は減少する。だが、空亡にも凶とする側面がある。たとえば、女命で官杀が空亡に落ちる場合、官杀は夫を象徴するため、結婚が遅くなる、夫が長年そばにいないことなどを主とする。
およそ命に空亡煞を帯びる者は、生旺であれば気度が大きい様相があり、虚名を得やすく、体つきは豊満で、思いがけない無心の福が多い。もし死絶であれば、一生の成敗は漂泊して定まらない。だが、もし空亡が我方の有気の地に落ちれば、禍とはなり得ない。❌ 大いに忌むのは干支が天中煞と合することであり、これを「小人得位」と謂い、奸詐で诡谲、為さざる所なしを主とする。もし空亡の干支が我に克されるならば、これは「天中受殃」であり、反って特達の福に転化する。(例えば戊午火命の人が甲子金の空亡を見る類である。)空亡の性は変化して常なきがある:
🔍 空亡は日柱をもって起算し、天中煞は年柱をもって起算する。日は自己を表し、年は国・環境を表す。もし両所ともに空であれば、自身と外部環境のいずれにも自己の位置がなく、管束する者がいないことを示す。ゆえに「為さざる所なし」となる。この類の人は最もスパイ、諜報員に適している。
官符と並ぶ:官符は文を主り、空亡に臨めば誇張・誇示・表面的な文面として現れる。劫煞と並ぶ:劫煞は勇敢で正直なことを主るが、空亡に臨めば狡猾な内実を帯びる。亡神と並ぶ:亡神は死亡を主り、空亡に臨めば他郷にて命を落としやすい。建禄と並ぶ:すなわち禄空であり、財を守りにくく、貧を主る。
古書にまた云う:「凡そ命に空亡に値するとき、時上に見れば、多くは性格が頑固で、事を行うに高いが虚ろである。さらに華蓋に遇えば、必ずや子が少ないことを主る。日上に見れば、多くは庶出(正妻の子でない)か、または妻妾の間が離間し、偶合に遇えば淫荡が多い。」
時柱に空亡が見える場合、その人の性格は執拗で、物事を好んで高遠に志すが実際とは乖離している。もしさらに華蓋に遇えば、必ず子孫が稀少である。日柱に空亡が見える場合、多くは庶出(正室の子ではない)を主るか、あるいは妻妾との関係が疎遠になり、合に遇えば淫荡なことが生じやすい。
時柱は子の位置であり、空亡はすなわち不実であり、華蓋を帯びればさらに子を生みにくいことを示す。
古歌に云う:「胎裡生逢怕遇空,遇空時節自昏蒙;饒君十步有九計,不免飄飄西復東。」
胎元が空亡に落ちれば、その人は愚昧で昏蒙であり、たとえ聡明で計略が多くとも、一生漂白して定まらず、東西に奔走することを免れない。
また云う:「建禄臨空虛有名,平生向學老無成;若逢馬貴來相救,縱得官時又復停。」
禄位が空亡に落ちれば、虚名のみあることを主り、平生学問を志すとも老いても成就せず、富貴は長く続かない。たとえ驛馬・貴人が救いに来ても、官職を得るとも再び停止する。
また云う:「甲寅戊午及庚申,丑上天中最不仁;本分生來當受禄,因逢五鬼遂衰貧。」甲寅水命が辛丑土を見ることを以って、鬼が来たりて命を克するとする。戊午が丁丑を見る、庚申が乙丑を見る、同様に空亡であるが、命を克することを忌む。
もし空亡の柱の納音五行が年命の納音を克するならば、「鬼が来たりて命を克する」と称し、不吉とする。例えば甲寅水命の人が辛丑土の空亡を見れば、土は水を克し、鬼が命を克することになる。戊午火命が丁丑水の空亡を見れば、水は火を克する。庚申木命が乙丑土の空亡を見れば、土は木を克する(注:庚申の納音は石榴木、乙丑の納音は海中金であり、ここでは原文に出入りがあるが、原文に従って保留する)。この種の状況は「五鬼」によって衰敗貧窮に至ることを主る。
「截路空亡」があり、ちょうど人が途中で水に遭い、前進することができず、渡ることができないようなものである。ゆえに「截路」と曰う。ただ日柱をもって時柱を取ることで見る。例えば甲己日が十二時の中に遁行するとき、申酉の時に壬癸(水)を見る。ゆえに甲己日は申酉時を見るのが截路空亡である。乙庚日は午未時を見る。丙辛日は辰巳時を見る。丁壬日は寅卯時を見る。戊癸日は戌亥時を見る。この二つの時辰はともに壬癸水に遇うため、截路となる。
截路空亡は時柱の空亡が水を帯びることであり、物事に遭遇して阻まれ、順調でなく、退縮することを主る。大運・流年で遇う場合も同様に断じる。財を求め、官に昇り、遠行し、嫁娶するにおいて、すべて阻害されることがある。たとえば、昇進が決まらない、商売の提携が失敗するなどである。
「四大空亡」がある。六甲旬の中では、甲辰・甲戌の二旬は、金木水火土の五行がすべて揃っている。甲子・甲午の旬はただ水を欠き、甲寅・甲申の旬はただ金を欠き、この四旬は五行が揃っていない。例えば甲子・甲午旬に生まれた人が水を見る、甲寅・甲申旬に生まれた人が金を見ることを、正犯と称する。もし本命の年の中に犯さなくとも、行運が水または金の所に至れば、これも犯すと謂う。もしこの煞を帯びれば、一生蹇滞を主り、貧賤・富貴を問わず、皆夭折を主る。もし三所で重ねて遇えば(本命・大運・流年)、死期は瞬息のうちに至る。《壺中子》に云う:「顔回の夭折は、ただ四大空亡のみによる。」正にこれを指す。
四大空亡は凶の中でもさらに凶であり、夭折を主り、貧賤富貴を問わない。もし大運が四大空亡に遇えば、これも不吉を主り、もし流年でさらに遇えば、死する。
例えば甲子年生まれの人が甲戌時を見れば、この時上に正に犯しており、程度は軽い。己巳年生まれの人が癸亥時を見れば、これも時上で内犯し、程度が最も重い。
《指迷賦》に云う:「禄が空亡に入れば、必ず前後の辰を分かつ。ここをもって陰陽の分を知り、軽重の等を明らかにする。」《八字金書》に云う:「甲寅旬は、壬癸が空亡に落ちる。甲辰旬は、甲乙。甲申旬は、丙丁。甲戌旬は、庚辛。」地支の二位をもって天干を論じることを、あるいは十悪大敗と謂う。この日生まれに犯す者は、貧賤を主る。
十悪大敗は貧賤を主り、たとえ富貴があっても長く続かない。
空亡の意味するところは比較的簡単であり、核心となる要点は以下の通りである:
| レベル | 要点 |
|---|---|
| 基礎的意味 | 吉神であれ悪煞であれ、空亡に臨めば、その性能は少なくとも半減する |
| 組み合わせの意味 | 空亡と天中との合、亡神・劫煞に臨む、官符と並ぶことの意味に注意する |
| 特殊な空亡 | 截路空亡・四大空亡・十悪大敗の意味に注意する |
以上の三つのレベルの意味を理解し尽くせば、空亡という神煞はおおよそ掌握できたと言える。
空亡の本質は天干と地支の非対称性——地支は存在するが天干が臨まず、「名ありて実なし」の格局を形成することにある。古人はこの現象を通して一連の哲学的論理を抽象化した。位置の虚と実、名の有と無、力の強と弱である。空亡は絶対的な「無」ではなく、「有にして空」である。ちょうど家屋がありながら人が住んでおらず、構造は存在するが機能が失われているようなものである。この「半減」であって「零」ではないという考え方は、中国伝統の命理における陰陽消長・虚実転化の弁証法的観念を体現している。
現代的な文脈において、空亡は機能性の欠如と理解できる:
| 応用シーン | 空亡に対する現代的なアドバイス |
|---|---|
| 職業選択 | もし命が空亡を帯び、かつ華蓋・三奇と並べば、学術研究・芸術創作などに適する。もし劫煞と並べば、「臨機応変な対応」が必要な職に向くが、純粋な執行役には不向きである(実行力が割引されるため)。 |
| 婚姻感情 | 官杀が空亡の者は適用期待値を積極的に調整し、遠距離・半遠距離の婚姻形態を受け入れるか、同様に独立した空間を必要とするパートナーを探すべきである。 |
| 資産管理 | 建禄が空亡の者は「禄は空にして財を守らず」、長期の固定投資には不向きである。流動性資産の配分が適しており、人との共同経営も不向きである。 |
| 移動・決定 | 流年で截路空亡に遇う場合、重要な契約・遠行・求職・婚礼は意図的に時期を避けるか、少なくとも代替案(プランB)を用意しておくべきである。 |
| 健康安全 | 四大空亡の命局は「安全の冗長性」を生活の原則とし、エクストリームスポーツや高リスク職業を避け、該当する流年には予防的健康診断を行うべきである。 |
空亡の深層にある哲学的意味合いは**「虚」の価値にある。老子は「有の利は、無の用に因る」と説く。家屋は空であるがゆえに人が住め、器は空であるがゆえに物を盛れる。空亡は見かけ上の欠如であるが、実際には命局に空間を残している**。もし一つの八字に満遍なく吉星が満ちて一か所の空亡もなければ、必ずしも良いとは限らない。欠落がなければ変化がなく、変化がなければ生気がない。空亡の存在は私たちにこのことを気づかせてくれる。人生の意義は必ずしも「有る」ことだけにあるのではなく、「容れる」ことにもある。それは人を「完璧を追い求める」執念から解放し、欠落と共に在ることを学ばせる。見かけ上「無用」な空白は、まさに個人の自由と創造性の源泉なのである。ある意味で、空亡は命理が人に与える逆説的な庇護である。「半減」した凶険と「虚名」の栄誉をもって、得難い弛みを得るのである。
現代の命理学者による空亡の研究には、主に以下の方向性がある: