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全 8 章中 5 章
太清神鉴
形貌は内面の修養に勝ることはできず、心術は長く蒙昧のままであってはならない。人が外物に駆使されれば、心の使い方に困窮し、事柄に奪われれば、選択を誤る。ついには凶禍と悔恨を招き、その後で天を怨み人を責める者が、枚挙に暇がない。このことを思うたびに、嘆息せざるを得ない。
しかしながら、物事に直面し、決断し行動する際に、その心術を正しくして取るべきものが七つあり、その心術に背いて取るべからざるものも七つある。
取るべきものとは何か。一に曰く忠孝、二に曰く平等、三に曰く寬容、四に曰く純粋、五に曰く施恵、六に曰く有常、七に曰く剛直。
取るべからざるものとは何か。一に曰く陰悪、二に曰く邪穢、三に曰く苛察、四に曰く矜誇、五に曰く奔競、六に曰く諂諛、七に曰く苟且。これらは皆心術の違いに由来し、外に感応してそれぞれ異なる兆しがある。
古人は心を論じ術を選ぶにあたって警戒するところがあった。ある人が問う。「心術の可取と不可取はそれぞれ類があるが、これらは形貌から見分けられるか」
答えて曰く。
貌端気和なる者は——忠孝。骨正色静なる者は——平等。眉開眼大なる者は——寬容。気和して暇なる者は——純粋。面開き准黄なる者は——施恵。鼻直く神定まる者は——有常。剛粛にして貌古き者は——剛直。この七相を有する者は、人として取るべきものである。
眼凶じ神露なる者は——険悪。眼下に嫩色ある者は——邪穢。眼深く肉横たわる者は——苛察。眼に忿気ある者は——矜誇。眼急ぎ色雑なる者は——奔競。視流れ容笑む者は——諂諛。気粗く身摇らぐ者は——苟且。この七相を有する者は、心術正しからずとし、取らざるところである。
もし眼下に肉生じ、竜宮福堂の処に黄気が盤繞するを見れば、これは陰徳ある人である。徳ある人は、物に対して心を用いず、事に臨んで執着せず、道に体して出で、道に体して入る。世の間の種々様々なことは、霊台に一つとしてかかわりあるものはなく、ましてや心術の意図的な作為などがあろうか。いわゆる「心術」とは、人をして自身の足らざるを補わしめんとする励ましに過ぎない。心に畏敬を抱いて行えば、ともに善に帰することができ、それによって大道を受け入れるのである。(『玉管照神』の「七可取」はこれと同じである)
徳の意義は何と壮大であろうか! 天は大徳を有するがゆえに、四時が運行して長く高い位置にある。地は至徳を有するがゆえに、万物が生長して長く厚い載せるところとなる。人に徳があるのも、また同じである。
それゆえに、人道はこれを祐け、人心はこれに帰し、長生の栄華を享受する。父母に孝養を尽くすことができ、君上に忠誠を尽くすことができ、人と和睦し、万物と同じく斉しくすることができる。徳をもって先となし、行いをもって範とする。たとえ陽の世の賞賜を得なくとも、必ず陰徳の報いを得るであろう。たとえ自身に報いなくとも、必ず子孫に報いるであろう。
それゆえに相を善く見る者は、先にその徳を察し、後にその形を相す。徳行が美しくとも形貌が醜ければ、君子たることを妨げない。形貌が善良でも行いが凶悪ならば、結局は小人である。
荀子が言う。「形を相するは心を相するに如かず、心を論ずるは徳を論ずるに如かず」と。これは人を善に勧める言葉であり、また徳が首位にあることを説くものである。
形貌はちょうど木工が手にする材料のようなものである。材質は美しくとも、匠が拙劣であればこれを棄てて、材とならざる木とする。人の形貌が美しくとも、徳行がなければ、形の美は虚美に堕し、天が禍を降し、人が損なうところとなり、遭殃すること疑いない。
これによって知る:徳は形に先だち、形は徳の後に位く。徳ありて形貌醜きは可なるも、形貌美しくして徳なきは不可なり。
古の至人は生を以て労碌となし、死を以て休息となす。これによって来去は「我」の執るところに非ざるを知り、ゆえに生ずることもでき死することもでき、万物の上に独立し、乾坤を太虚の中にて斡旋するであろう。このようにして、どうして生死の相に執着する必要があろうか。鄭国の神巫は初めに帯人の子を見て、その救いがたきを断じたが、ついには死せずして老いた。これが下愚の人が大道に通ぜず、世事に沈溺し、仮の我を実有と認め、外物を真の我と認め、生を楽しむべきものとし、死を悪むべきものとする所以である。
内心の思慮が絡みつき、妄念がひとたび生じれば、面目はそれに従って変わり、人をして面相によって判断せしめる。それゆえに神昏き者は死し、神乱るる者は死し、神浮ける者は死し、神雑なる者は死す。言行举止がことごとくその常を失う者は、数十日と経ずして死す。須臾の間には浅深を見て断ずべきであり、しかしながら拘泥してはならない。
嗚呼! 生死の事もまた大いなり。世の間に迷える人は、改頭換面し、苦海に沈溺して探求することを知らない。どうして寂滅の相を観じ、本来の面目を認識し、一つ一つ人事によって証験しないのか。このようでなければ、免れず生死の途に流転し、尽きざる苦恼を受けるであろう。
神という道は、出ずれば見るべからず、隠るれば求むべからず、虚にして形なし。それは心の内から体会すべきであり、その象を捉えることはできない。しかし形貌から測り知ることができる——昭々として眉目の上に顕れ、幽々として五脏の中に運行する。それゆえ人は言う、眼が明らかならば神は眼に遊び、六徳が具われば神は心に思う、と。神は形より出でてその表象となり、ちょうど日月の光が外に万物を照らすようであり、而して神そのものは日月の内に隠れるのである。
人の眼が明らかならば神は清く、暗ければ神は濁る。神が清ければ六徳多くして六昧少なく、神が濁れば六昧多くして六徳少なし。
夢の境地は、神が心に遊ぶところであり、遊ぶところは遠くとも、五脏六腑と耳目視聴の範囲を出ない。夢中の景象と見る所の事は、あるいは想念によって成り、あるいは事に遇いて至るものであり、皆一身の内に本来有るものである。それゆえに夢中で聞く事は、自身の中に在り、自身の外には在らないのである。
白眼禅師は夢に五境ありと言う。一に曰く虚境、二に曰く実境、三に曰く過去境、四に曰く現在境、五に曰く未来境。神が躁げば境は生じ、神が静かならば境は滅す。これによって夢境は人の動静によって生じることを知る。
人の形貌を見れば、あるいは洒然として清く、あるいは翹然として秀で、あるいは皎然として明らかに、あるいは凝然として瑩く、眉目は聳え動き、精彩は人を射る。みな神が内に発して表に現れるものである。神が清くして和し、明らかにして徹する者は、富貴の象であり、昏くして濁り、柔らかくして怯懦なる者は、貧薄の相である。
実にして静かなる者はその神和ぐ(『玉管』に云う:「詳にして静かなる者はその神安んじ、虚にして急なる者はその神躁ぐ」と。)
それゆえに君子はその性を善く養う者は、その気を暴にしない。気が暴でなければ形は安んずる。形が安んじて神の全からざる者は、未だかつてあらない。
又云う:気とは陰陽が推移して人に影響する力であり、寒暑の規律がなければ、測ることが難しくないか。仿佛の間に、変あれば則ち気がある。神と気は相同じて主宰するところがある。気が変じて形を有するに至り、神は形に止まりて寓するところがある。変じて生あるも、神は未だかつて生ぜず、変じて死あるも、神は未だかつて死せず。
古の道を得たる人は、埃塵に染まらず、事に役せられず、それによって神の妙を知るは太虚と同体であり、神の微を知るは造化と同用であり、すなわち聖人、至人、神人となる。
種々の表現において、形は人事の間に在り、神は心に蔵され、眉目の間に発現するも、なおその本真を失わない。神気の品相をもって言えば、古を上とし、清はこれに次ぎ、蔵はこれに次ぎ、媚はまたこれに次ぐ。
それぞれ相応の体格神気を得て賦与される者は、公卿とならない者はない。上に達する者は、神仙に近い。媚は貴気があるといえども、阿諛讒佞の人である。朝廷に在りといえども、身の進退も論ずるに足らない。
嗚呼! 人は精神と霊性を喪失し、神の真義を知らず、万物とともに生死の機に出入りするに至るも、自ら知らないのである。
神余りある者は、眼色清澈にして瑩とし、顧盼斜めならず。眉秀でて長く、精彩聳え動く。容貌澄徹し、举止汪洋たり。遠望すれば洒然として秋月の霜天を照らすがごとく、近看すれば巍然として和風の春花を動かすがごとし。事に臨めば剛毅にして、猛獸の深山に入るがごとく、衆に処しては超逸、丹鳳の雲路を翱翔するがごとし。その坐するや、磐石の動かざるがごとく、その臥するや、栖鳥の揺らがざるがごとし。その形、洋々として平水の流るるがごとく、昂々として孤峰の聳ゆるがごとし。言は妄りに発せず、性は妄りに躁がず、喜怒はその心を動かさず、栄辱はその操を易えず。万態が前に紛錯すれども心は恒に一なるがごとし。
これらは皆神余りありの表現である。神余りある者は、皆上貴の相である。凶災は入り難く、天禄は終身を保つ。
神足らざる者は:醉わざるに醉えるがごとく、常に病酒の如く。愁わざるに愁うるがごとく、常に憂戚の如く。眠らざるに眠るがごとく、寝て剛醒めたるがごとく。笑わざるに笑うがごとく、忽ち驚忻するがごとし。瞋らざるに瞋るがごとく、喜ばざるに喜ぶがごとく、驚かざるに驚くがごとく、痴ならざるに痴なるがごとく、畏れざるに畏るるがごとし。容貌举止は昏濁にして、癫痫に染まるがごとく、神色惨怆、常に失うところあるがごとし。恍惚倉皇、常に恐懼するがごとし。言語は艱澁退縮して、恥じて隠すに似たり。体貌は低垂し、重創を受けたるがごとし。色は初め鮮やかにして後に暗く、語は先に快くして後に訥し。
これらは皆神足らざるの表現である。神足らざる者は、牢獄の災と枉厄を多く招く。官職ある者も位を失うことを主とする。
天地は一人の至好であり、陰陽の二気を駕御して徳を成す。二気が交通して和すれば、万物はその性命を遂げ、乖戾にして調わざれば、万物はその理を失う。これは天地の気が変化における顕現である。
石に玉を蘊めば山は輝き、淵に珠を藏すれば川は媚ぶ。至精の宝が内に藏されれば、光華は忽ち山川に現れる。万物の情態の美なるは、ことごとく気に発して色に顕れるのである。
形なる者は、質なり。気なる者は、用なり。 気は質を充実させ、質は気を運転する。気によって形を保ち、形によって気を安ずる。それゆえに質が宏ければ気は寬く、神が安んずれば気は静かである。得失はその気を動かすに足らず、喜怒はその神を乱すに足らざれば、徳において容あるあり、量において度あるあり。これは厚重の福の相である。
形は木材のごとく、松柏荊棘の異あり。気は工匠のごとく、規矩準縄の工あり。材に随いて器を成し、形に随いて体を制す。
それゆえに君子は形を以て善悪の地とし、気を以て騏驥の馬とし、善くこれを御してその道を得る。
善人の気は:急ならず暴ならず、乱れず躁がず。寬くして物を容るること、大海の洋々たるがごとく、和して物に接すること、春風の習々たるに類す。剛にして能く制し、万態もその操を動かすに足らず、清にして能く潔し、千塵もその色を汚すに足らず。
小人はすなわちこれに反す:寬ならずして隘く、和ならずして戻く、剛ならずして懦く、清ならずして濁く、正しからずして偏し、舒ならずして急なり。ただその気の浅深を観察し、その色の躁静を察すれば、君子小人は弁別できる。
気長くして舒和、寬裕にして暴ならざる者は、福寿の人であり、急促にして均しからず、暴然として色に現るる者は、薄浅の相である。
気の運行の道は、また顔面から表現され、吉凶の先兆となる。その散ずるや毛髪のごとく、その聚まるや黍米のごとく、望めば形あり、按ずれば迹なし。面部の諸部位に出入りし、また人の禍福に応ずる。
もし呼吸声なく、耳自ら聞かず、あるいは臥して喘がざる者を、これを亀息と謂い、長寿の相である。もし呼吸気盈ちて急促なる者は、夭死の人である。
孟子は萬鍾の禄を貪らず、善くその気を養い、升合の利を争いて恚々としてその色に戻りその気を暴にする者は、何ぞ道うに足らんや!
気は形を養う所以のものであり、五脏六腑の間に在り、七情によって斂散する。故に五岳四瀆の上に発し、六気の変がある:
六気の中、ただ青竜のみ吉とする。他はあるいは破散を主とし、あるいは憂驚を主とし、あるいは哭泣を主とし、あるいは陰賊を主とする。もし骨形が格に入らざれば、終身これに累され、もし骨形が正当ならば、数を候うを得て、然后に気散じて名顕れる。また賦与されたる浅深を見て斟酌判斷すべきである。
人の異相ありて貴からざるは、雑気に纏繞せられるからである。遠山の奇峰秀嶂が、雲霧に遮蔽せられ、見るを得ざるがごとし。ひとたび匝地の清風、当天の皎月に遇えば、奇峰秀嶂は目前に覧るべきのみならず、人をして恋恋として捨て難からしめる。
天中に青色現れれば、年内に微疾を染む。直ちに来年に下れば、定めて閻羅に見えんことを主る。ただ天牢に到れば、入獄もまたこれに由る。并びに准に青光起これば、憂驚の病最も多し。青の中に更に黒あれば、必ず自家の銭を損ず。双衆獄に散下すれば、官事相牽かんと欲す。
印堂に黄気起これば、官禄定めて高遷せん。白気は家に喪を遭い、青来たれば口舌纏わる。中正に黄絲発すれば、守令の職疑いなし。赤点心中に出すれば、公事は妻児と別れん。青光は驚き必ず恐れ、黒色は怪神の覗くところ。白色は喪事を憂え、迍邅の事日ごとに随う。
白絲鼻上を攔えば、口を繞りて当年に衰えん。黒生ずること一日の内ならば、財は賊のために欺かれん。黒気横に長く起こらば、夫妻は散離せんと欲す。白光横に鼻を過ぐれば、子息更に之を妨ぐ。訟獄の横気起こらば、禁に在りて脱枷の災あらん。青絲眉首に下れば、入獄して共に咨嗟せん。黒気の斯くの如く至らば、獄死して更に救いなし。赤また青色に浮かば、離獄するも咎あり。
黄気高広に生ずれば、鼓の懸空に掛くるがごとし。百日にして明牧とならん。中になければ定めて貴封あらん。黄色四季に来たれば、好事の千通に応ずべし。色また房心に応ずれば、官高く職転じて雄んならん。もし天中の位を占めば、栄華は広と同かからん。双人一鼓を促せば、必ず三公を拝せんことを。准に入り天中に応ずれば、侯王として列土に封ぜられん。印堂に黄の月に似たるあらば、魁第として朝中を扼せん。日角に黄絲発すれば、兄弟に歓怡あり。
白光庫墓に来たれば、刀兵自ら期を失わん。匮に入りて財物を愛すれば、元坐して鬥訟の疑いあらん。喧爭を観るとき上下にあり、朱光は口舌の非なり。厨中に黄色を発せば、喜は六旬余に在り。あるいは州府の事に因りて、職を得るもまた処に非ず。房心に生日花すれば、飛道して山家に入らん。日下に住せず来たらば、疾を抱いて顛邪を主とせん。
天庭に黄色を発せば、白屋より公卿出でん。青白の還た起これば、高官罷め停めらるるならん。白黄此の位に居らば、妻児人は折れ迎えん。もし他人の婦に遇わば、必ず共に交情をなさん。郷路に黄絲発すれば、公卿白日に封ぜられん。赤気は郷を離れて走り、黒光は死路のうちに在り。白色額に就いて来たれば、五旬の間を出でず。走喪終には有り、防避も定めて難きに応ず。
眉頭に黄色起これば、喜事自ら相迎えん。もし红光の起きるを見れば、吉慶更に栄を加えん。白気眉を円く転ずれば、これに因りて或いは驚きを受けん。直ちに下れば君須らく看るべし、入獄して災迍を見ん。もし来年に下れば、徒流を仔細に防ぐべし。
中陽に黄気起これば、年至りて定めて封侯せん。赤気は奸坐に来たれば、婦人は外に遭いて偷まれん。尺陽黄潤なれば、妻妾豈に常人ならんや。目下に黄耳に来たらば、官職自ら身を栄さん。眉頭に赤気を生じ、准上にまた相迎えん。多くは一年の内に応じて、無辜にして沓冥に入らん。白光目下に游べば、哭泣の時聞こえん。眉間に旋繞すれば、家は鬼神に犯するに因らん。黒光目下に迎えば、子息の病相侵さん。もし方円一寸ならば、罪至りて決して刑に帰せん。
顴上に黄色新たなれば、參迎して貴人を見ん。白光巷路に停まれば、定めて遠行の身となさん。黄白は奸門に入り、飛びて精舎に入らん。婦人は此の時より奸し、春も夏も論ぜず。直ちに準頭に上りて齊しければ、陰相得て盜を藉らん。走りて石顴に停まれば、妹姉は外人の話ならん。もし众人の部に至らば、定めて郎君の婦となさん。黄光径ちに両耳に到らば、年中に寿位に封ぜられん。直ちに下りて人の形に似れば、女人は貴婿を得ん。赤色は辺庭に在らば、渾家大いに驚かされん。もし山林の際に上らば、尖炎は天形を滅せん。青光は耳畔に在らば、蛇蠍の悪、君を侵さん。白絲両眼に来たらば、当に病死の人とならん。
赤光は甲匱に生じ、命堂の中に入り至らん。ただ財産の上のみに因りて、訟事に災凶を見ん。赤色は欄枥に入らば、牛馬行く能わざらん。青光は触れられて損ぜられ、黒気は至りて生なからん。奴婢に黒気起こらば、仆走して休めども咨嗟せん。もし元光の発する有らば、身は当に女家に死せん。陂池に青色を発せば、田水に凶災あらん。白光は井溺を防ぎ、黒気は江に墜ちて衰えん。部位並びに生克、行無くして意は審裁せん。一虚は万物を含み、消息は天才に属す。
赤色天中と年に上の停まる処、もし眉際に纏わば定めて帰冥せん。ただ天中に在りて独り横に立てば、斯の人は清昼に刀兵を受けん。
赤、目下に下りて紅潤なれば、功に因りて爵を得ること定めて分明ならん。赤、もし眉頭分けて目下にあらば、男は私、外婦は他情せん。
天中に白気が辺境の方角から来れば、年内に災いが逢う、急いで避けねばならない。まっすぐ下がって印堂に至れば官事が起こり、夫婦は心を生じて離別しようとする。黒が地部に臨めば親の病を憂え、婦人は難産で、ついには定まることがある。もし準上から人奸門に入らば、理由もなく他人の妻が命を害することを因る。ただ来たって坐部に自ら当たれば、必ず文書が来て喜びを慶ぶ。
黒色が天中に在れば平らかになることを欲し、下がって双獄に来れば縄刑を受ける。もし年上に到れば身は病に遭い、まっすぐ来たって口に入れば刑によって死ぬ。気が鳥の虚のごとく颧骨の勢いに至り、忽ち両眉に到れば卒死を憂う。もし小帯のごとく眉の上に横たわれば、寿は人間に絶え、かつ子もなし。
円光の黄色が天中に見えれば、士人は必ず公侯の顔を拝す。凡そ度の流れは皆権を主る、気色は四時によって改變を見るべし。形が鐘鼓のごとくに天獄に下れば、公卿は自ら至り栄高禄を享く。もし蛇の状のごとくんば位は星郎、庶人は之を得て金玉を進む。公庭に鼓を懸くは三公の相、蚕糸の気は官禄を得る。色が黄沢ならば一世終わる、この身は必ず獄刑に陥ることなし。
印堂の黄色が方寸に明らかなれば、八旬の内に朝廷に入る。赤身の来たるは主として職を失い、上り来たって忠事を営み堪うるは、鼻梁の火色は官の擾を憂い、青が年上に来たれば病相い縈る。白気は当年に哭泣に遭い、黒気は口に入れば死、分明なり。
司空の黄色は時に応じて開く、五旬の内に横財来たる。上りて印堂に至れば封爵禄、日の初めに升るがごとく位は輔台。
准頭の赤色は生麻の似く、八旬の内に喧嘩あり。もし公門に在りてこの気に逢わば、定めて笞挞を受けてその身を辱めらる。白気が頤に至れば年内に死す、また知る、魂魄に虚驚ありと。黒色両辺に在れば父母を憂い、青光黒白は親家を喪う。
人中の黄色は奇なるかな、眉間の喜び異常なるに及ばず。もし更に両頬の上に通行せば、必ず高榮して正郎を作さん。怜れむべきは薬部に元色を生ずれば、病を見るの時、医を用うる要なし。
天府の黄蔭、光潤沢なれば、三旬の内に天才を得る。形が細柳の纖葉を抽くがごとくんば、身は超堂に入り鳳台に列す。もし紫のごとく色、红光潤なれば、旬を出でずして喜語来たる。
闕廷の黄色、天中に上れば、大いなる公侯の拜は季中に在り。もし司中に至りて微かに進退すれば、四方相い接して皇宫に入る。
武庫の紫黄、鼓を懸くがごとくんば、将軍の印綬、位は虚しからず。もし立ち、もし飛びて来たって相に入らば、物を受け閑居に寄すべからず。兵闌と武庫は即ち同じく看るべし、赤光は白日に刀に攢かる。白色外より来たれば驚險難を憂い、黄光出づれば将に加官を見る。黒気兵に遭わば須らく陷死すべし、青光上れば送るに端多かることなし。語息は四時によって生じて改變す、この篇の霊應は須らく詳しく觀るべし。
凡そ人の気色を見るには、須らく天色まさに暁め、傍らに起きる時に在るべし、帷幄の中に在りて紙燭をもって照らし看て弁じ、始めて吉凶を驗すること失わざることを得。もし檐光の処に在りて面を背にして看れば、本分の気色に非ず。更に洗面、盥漱し、湯藥を飲みたる後に看るべからず、それもまた驗し難し。
五脏の初気色は、即ち早朝の時に心に養息す、故に**侵晨(早朝)**に之を觀れば、則ち五脏五色の清気が面に朝するを見る。而して凶悪の気色は、則ち時を定めずして面に朝発す。或いは事に触れて怒りて発し、或いは物に感じて憂喜より成り、或いは酒を飲みて色変じて赤青し、或いは營幹して神色亂る、これみな本臓の色に非ず、一時の激発して成る所なり、故に吉凶弁じ難し。
早晚に非ざれば看ることを得ずんば、被看者をして凝神静坐すること良久せしめて後に看るべく、或いは徴兆あることを得ん。もし早晚を分かたず、酒后醉中、怒間汗後、停歇せずして便ち看れば、則ち此の時に又一時浮暴の気現わるることあり、先前の吉凶の徴は便ち獲ることを得難し。
青色は瓜の如く、黄色は蝋の如く、赤色は火の如く、白色は脂の如く、黑色は漆の如く。この五種は、色の正色、之を発すること甚だしき者なり。
五脏の生ずる所:
一に曰く水。水の物に於けるや精、その臓は腎に在り、その神元冥、発色は黒、その旺は冬に在り。精具われば則ち神之に従う。
二に曰く火。火の物に於けるや気、その臓は心に在り、その神丹元、発色は赤、その旺は夏に在り。神至れば則ち魂之に従う。
三に曰く木。木の物に於けるや魂、魂は陽物なり、その臓は肝に在り、その神龍煙、発色は青、その旺は春に在り。魂在れば則ち魄之に配す。
四に曰く金。金の物に於けるや魄、魄は陰物なり、その臓は肺に在り、その神皓華、発色は白、その旺は秋に在り。精神魂魄備わり、その意存す。
五に曰く土。土の物に於けるや意、意は精气なり、その臓は脾に在り、その神長黄、発色は黄、その旺は四季に在り。
故に五色皆一面に朝し、而して五脏に息う。
五色の生ずる所の定憂辱:
気の色は天府に発すること豆の大いさの如く、鬢辺を貫きて黄色相応ずる者有らば、藩郡の任を得るを主る。
黄色光は印堂の当中に在り、一紫の豆の如き入る者有らば、一年内に大拜を主る。
黄色は天部に在り、金匮を貫き及び精舍道衡に連なり、又華蓋の上に盤旋萦繞せば、兵権を得、及び職を轉じ財を賞し、兼ねて貴子を産するを主る。
紫色の小蚕の如き大いさなる者は、将に官を加えられんとし、或いは自ら封拜し、其次は鎮を領す。
顴骨の上に兩道の黄色の横たわる者有れば、外出すれば必ず当たり、喜事旬日に至るを主る。
青色の如く耳門の前に出て、下りて大海に臨むは、少許の驚恐を受けん。もし黒来たれば、聞憂內應ありと主る。
黄は兩法令の上に在り、及び准頭に連なる者は、横財四十日の內に応ず。更に寿上に応ずる者有らば、財を得ること万貫以上。
青は山根に在り、両眼頭を通ずる者は、陰私公事を主る。
紫色は両天中の天府よりまっすぐ下る者、又蚕糸の如くんば、三月五月半年外に丞郎を作す。
青色は天庭の上より韭葉の大いさの如く垂るること二寸なる者は、外服の期至ること十日至を主る。
紅色の梧桐子の大いさの如きは地部の上に在りて、百日內に南方に在りて郡を領すを主る。
天中の黄色まっすぐ下りて中正に来たる者は、八十日內に恩賜詔書至る。少しく赤色の眉上より垂るる者は、勘事を主る。
青色或いは目上に在り、赤色垂れて眼を貫き、及び顴上の赤き者は、四十日內に憂危刑法。印堂に黑赤極めて分明なる有り、命門青き者は、一月內に中風し、六十日內に死す;潤澤にして赤き者は即ち死せず。
赤色の耳門より出づること馬肝色の似きは、将に腹疾の厄に染まんとするなり。
赤色の筋の如きは准頭の上下に在りて人中に至る、二十日內に人の損うる所となり、外口舌公事至る。
赤色の年上より分かれて両顴を貫く者は、八十日內に大殺あり、公事身に及びて死に至らず。
地部の上に赤色を起こす者は、酒を食べて濁病す。
赤色の両法令の上を貫く者は、公事を憂い、四十日にして至る。
赤色の鼻尾の中より下りて家舍に入る者は、奴婢の中に陰私口舌の事成るあり。
赤色の毛の如く、耳边より出で、蘭台の上に及びて応ずる者は、一月内に馬を失いて墜ちんとする厄ありを主る。
眼頭上下に黄色の垂下る者有れば、左は男の喜、右は女の喜、及び妻に喜あり。
赤色の眉頭より連なり幞颊額辺に出づる者は、官物を虧き、堪责の事を被るを主る、二十日內に至る。
黄色の如く蚕糸の銭許りの者は、左右両眉毛の上を貫き、更に印中に応ずる時八十日內に、朝判府推を主る。
色黄の印足の如く起こり辺地を貫く者は、二十日內に公事に遭いて位を失い遠行の憂いあり、もし黄色応ずれば即ち之を解く。
赤色の太陽の上より起こりて辺地に入りて起こる者は、損失眼角を被る。色の筋許りの外より入る者は、人の己を謀る所;内より出づる者は、相訴の説を擬す、谨慎せよ。
眼上下の臉倶に赤き者は、家に重病人ありと主る。もし印部に左右赤色有らば、父母の厄を憂う。年上微かに赤くんば、脾の病を患い、老いても安んずるに至らずを主る。寿上及び准頭の者は、亦重病を憂う。
もし色の金匮より起こり、寿上甲匮を貫き連なり懸璧に到らざれば、財を得るを主り、その喜び兼ねて水土の官を得、一年內に至る。東より起こりて大海の內を貫くは、当年に水災を主る。
地部の紫色円く黄色なるは、貴顯を主る。赤色の撒くが如きは、二七日內に爭訟の事を主る。或いは麻筋の如く兩法令の上に在れば、獄に入るの厄あり;微かに赤くんば、刑欲し、並びに両肝(顴)の来たり鬢に上るは爭競の事に至る。
黄色の筋の如く兩位に斜めなる者は、東南の上にて公事を勾当して財を得、或いは丁部南の上にて奉使して財物を得るを主る。もし更に金匮に臨み、車輪の如くんば、財を得ること万数。
天の蒼蒼たる色は、それがその正色か。雲霧はただその気に過ぎない。人の賦形受命は、天地と相為流通す、故に禀く所の気に変動あり、而して色に定体あり。
定体の色は、蒼蒼に止まらず、その属性に五行の異あり:金は色白く、木は色青く、水は色黒く、火は色赤く、土は色黄なり。正色を得て五行と為し、相克せざる者は滞らずして貴と為し、雑色遮蔽すれば即ち偏り。
然れども色の正は、気無かるべからず。日月角に現れて温粹愛すべきは貴と為す。枯燥昏暗の如くんば、発達し難きのみならず、平生多く脾胸心腹の疾、水火獄訟の厄を主る。或いは骨肉法部の局取り得べきに因りては、縦い発すれば則ち災い立ち至る。
古人に蚕の吐く糸の説あり:額颏よりして開き、通体明快なり。人の将に発せんとするは、准頭よりして開く。その頓発、翳を見ずんば、則ち職分免かれずして凶あり。或いは瑕翳なければ、則ち全吉。
更に知るべし、五色の生ずる所は、吉凶の属に非ざるも、色を論ずるは此を出づるものなしと。神色未だ天庭を透さずとも発する者有るは、その准頭開きて部位の貴きを得るなり、皆以て相応ず、必ずしも天庭に至るを須いず。或いは陰晴未だ定まらざる者有るは、必ずしも准頭に至るを須いず。
所謂貴処とは、印堂、帝座、内府、驛馬、龍虎、日月、地角是なり。貴にして頓覚せざるは、是を不祥と謂う。此の説は言を以て尽くすべからず、修養の功、消息の至るを見るべきのみ。
色の態を觀る:
その頓発は皆准頭に在り。(《妙観経·色論》同じ)
五行の人、その本色を得るか、或いは相生の色を得る者は善し。五色の地を得る者:春色は青きを要し、夏色は紅きを要し、秋色は白きを要し、冬色は黒きを要す、又尽善なり。
五行旺相休囚:
| 季節 | 旺 | 相 | 囚 | 死 |
|---|---|---|---|---|
| 春三月 | 青色 | 赤色 | 白色 | 黑色 |
| 夏三月 | 赤色 | 青色 | 黑色 | 白色 |
| 秋三月 | 白色 | 赤色 | 青色 | 黑色 |
| 冬三月 | 黑色 | 白色 | 赤色 | 青色 |
春は起こらんと欲し、夏は横たわらんと欲し、秋は下らんと欲し、冬は藏れんと欲す。 その時を失う者は、皆利あらず。
春に起こらんと欲するは、春に出生の象あり 🌱;夏に横たわらんと欲するは、夏に長養の象あり 🌿;秋に下らんと欲するは、秋に収斂の象あり 🍁;冬に藏れんと欲するは、冬に閉塞の象あり ❄️。
その或いは方、或いは円にして、形象万端なる者有るも、亦別術を以て之を断ずるに在り。
青色初めて起これば、銅青の如し。将に盛んならんとする時、草木の初めて生ずるが如し。去らんと欲する時、碧雲の色の如く、霏々として浮散す。
五行属木。旺は春に在り、相は夏に、囚は秋に、死は冬に在り。
発すれば則ち憂を主る。枯は外憂を主り、潤は大憂を主り、混は遠憂を主り、散は憂の解けるを主る。応は亥卯未日及び月に在り、色の深浅を以て之を断ず。
青色吉凶歌
天中に光沢あれば詔書の貴を得、枯槁は須らく詔責の亡を憂うべし。秋色の年上より発すれば、陰私口舌の厄当に難きこと堪えず。陽尺は行を憂い兼ねて疾病、天庭は主客系りて憂うべきに堪う。交友は婦の外客を通ずるを須い、司空は或いは起こされて徒囚せらる。巷路は但だ百里の威を成し、太陽は定めて妻と相打ち、外傷枉死は讒言に被る。もし太陰の日らに連なるが如くんば、必ず県宰の悪笞鞭に遭わん。房小は春発すれば当に子を生むべく、寿上は口舌の牽くを憂うべき。坑堑の対は須らく大怪を見るべく、陂池の蛇怪は言うに堪えず。山林の花鳥は妖異を呈し、欄枥の馬牛は怪愆あり。忽ち井釜の中に在れば響き鳴り、然らずんば井溢れて寒泉湧く。命門甲匮は凶厄を憂え、准頭は兄弟父母の喪。散失は主として辺防に職を失い、人中是れ別離の傷有るを憂う。承浆は病に遭わざるに如かず、大海は水に溺れ死するを防ぐを須い。もし日月に臨まば賊を憂うるを須い、もし川文有らば官禄全し。日角の蚕に臨むこと粉を傅くが如くんば、印堂は口を退き、病は遲延す。道上に或いは逢わば阻滞を憂い、山林の蛇虎の厄当に妨ぐべからず。もし来たって金匮并びに墙壁に至らば、財物三旬の共に傷ましむべし。奸門は外妻の撓むを怕る。眼下に横たわり来たれば病苦纏う。寿上に逢わば病厄を憂い、更に債負の禍来たり煎ずるを憂う。口畔に入り来たれば餓死を憂え、更に枉滥の事相牽くを兼ぬ。三位囚傷せば子孫損せられ、半日の間に墓に入り眠る。天门は三十日に財至り、天井の円珠は武官の位。病人の此に値するは病安んじ難く、囚人の之を見るは尤も迍滞す。
黄色初めて起これば、蚕の糸を吐くが如し。将に盛んならんとする時、繭の未だ繰らざるが如く、或いは馬尾の如し。去らんと欲する時、柳の色の花の如く、抟聚班驳として。
五行属土。旺は四季に在り。相は春に、休は夏に、囚は秋に、死は冬に在り。又、胎养の気と為す。
発すれば則ち皆吉慶を主る、但だ口に入るべからず、即ち病瘟疫す。応は酉申寅年戌日に在り、旬は則ち子戌辰旬に在りて之に応ず、万に一つの差もなし、須らく深浅を以て遠近を断ずべし。
黄色吉凶歌
黄色が天中に現れれば領地を分け与えられ、円やかな光が大きく重なれば公卿に列せられる。さらに年上を過ぎて井戸や釜の部位に至れば、功労によって常に高い勲位を賜る。あるいは月が昇るように年上を照らせば、必ずや宮中に宿直して朝門に入るだろう。両側の門を経過すれば即座に召し上げられて官職を授かり、金匱の詔によって絹や銀を賜る。突然、宮廷の門前に至れば官職が急に転じ、あるいは財貨を得て満ち足りる。また龍の形をなしていれば必ず賞賜を受け、鐘や太鼓を懸けたようであれば三公の位を得る。蚕の糸のように見えれば必ず官職を得て、春に年上へ来れば喜び楽しげである。武庫の光沢が潤えば将軍の福を示し、また喜びの出来事を伴って陽尺にも併せ現れる。母の墓に関する喜びと田宅のこと、さらに父母には災いが少ないことを示す。司空の部位には百日のうちに財宝を得る。右府の内へ勅命が来て召し出されるであろう。二重の眉、交わりの友人は碁の石の如く、七日の後に左右の丞となるだろう。さらに山林を過ぎて天中に至れば、博士として召され、最も栄誉ある者となる。印堂に月のように現れれば六旬のうちに、将軍に任じられて百の城を鎮めるだろう。あたかも連なった刀のように天庭に至り、下って鼻先にまで達して明らかであれば、その者を県令と断じ、忽ち遷転して、長吏は官を分かたれて宮廷に向かう。火の体に発すれば光明ありて多くの喜び、また遠方からの便りがまもなく届くという。山根に見えて面向けば皆が思いどおりになり、太陽の部位には必ず財貨を得る喜びがある。少陽の部位に喜びが重ね重ね訪れ、魚尾に吉があれば先へ導いて進む。龍の形が年上に見えて、天中まで色が連なれば上卿に拝されるだろう。眉と目の下に子の兆しがあり、左に黄色が現れれば男を生み、右は女を生む。婦人はこれとは逆に解釈し、金匱は家の中で財物や帛を得る人であること。寿上に柳の葉の形が現れれば財物の入ることで、帰来は遠方からの便りが中庭に至る。鼻先から心の中心に向かって生じれば、身分が急に高まり、封侯されて乗り物を用いるようになる。蘭台には必ず尚書の綬を得て、内厨には酒食が備わり倍して恩を受ける。大海の部位は江を渡る者にとって吉であり、日月の部位は三公あるいは高位にあって顕れている。甲匱は牛馬の喜びを得ておだやかに事が定まる。眉の位置に丸い形があれば多くの良い出来事があり、酒樽には酒食が整い、豊かに潤うことを得る。
「七可取」と「七不可取」は、実際には一套の人格特質分類体系である。忠孝、平等、寛容などは、現代の人格心理学における誠実性、勤勉性などの次元に対応する。陰悪、苛察、矜誇などは、暗黒人格特質と関連する。古代の観相術の知恵は、これらの内面的特質が必然的に外面に現れると捉え、それによって顔の特徴を観察することで人格を推測できるとした点にある。
5. 十天羅の系統的警告
十天羅(死気、喪哭、憂滞、疾病、酒食、姦淫、破敗、牢獄、鬼掩、退散)は、実際には顔における危険信号の分類リストである。表にまとめると次の通り:
| 天羅の種類 | 顔の特徴 | 象徴的な意味 |
|---|---|---|
| 死気天羅 | 顔全体に黒色が四方に立ち現れる | 生命エネルギーの衰竭 |
| 喪哭天羅 | 白色が全面に広がる | 悲しみと喪失 |
| 憂滞天羅 | 青色が全面に広がる | 抑鬱と停滞 |
| 疾病天羅 | 黄色の異常 | 健康状態の悪化 |
| 酒食天羅 | 脂膏を塗ったようである | 飲食の節度なし |
| 姦淫天羅 | 眼光が流れ、視線が急である | 欲望の制御不能 |
| 破敗天羅 | 色は焦げて火のようである | 運勢の衰敗 |
| 牢獄天羅 | 酔ったか眠っているかのようである | 精神の萎靡 |
| 鬼掩天羅 | 笑い話が節度を失う | 心神の失常 |
| 退散天羅 | 気は霧のように昏い | 気運の退散 |
1. 自己覚知のための顔の信号
現代人は、顔色の観察を自己の健康モニタリングの補助手段として用いることができる。顔色が長期間くすんでいる、目の下が青白い、眉間が暗いなどは、健康問題の早期警告である可能性がある。これを「吉凶の前兆」とみなすのではなく、身体が発する信号として理解し、健康診断や生活習慣の見直しを促すものと捉えるべきである。
2. 「神を養う」ことの現代的実践
「君子は善くその性を養う者は、その気を暴せず」——この原則を現代の言葉に置き換えると、感情管理である。激怒せず、過度に心配せず、落ち着きを失わず、感情の安定性を保つことは、人間関係や意思決定の質を改善するだけでなく、長期的には個人の全体的な精神的相貌にも影響を与える。気が暴れなければ形は安らぎ、形が安らげば神は全うされる——これは感情の調節から全体的な健康への良い循環である。
3. 心術修養の実用ガイド
「七可取」(忠孝、平等、寛容、純粋、施恵、恒常、剛直)は、現代の職場や対人関係においても依然として指針となる意義を持つ。これらの資質は、誠実さ、平等意識、包容力、集中力、利他性、信頼性、正直さに対応する——これらはすべて、現代の組織行動学において公认されているリーダーシップの核心的資質である。
4. 「相学決定論」に対する理性的態度
本巻が特に注意すべき点として挙げられるのは、「徳はあって形は悪くとも可なり。形は善くして徳なきべからず」と繰り返し強調していることである。これは、伝統的な相学の内部論理においてさえ、形貌は変えられない宿命ではないことを意味する。人の徳性の修養は、先天的な形貌の制限を超越し得るのである。この観点は、現代人に積極的な心理的示唆を与える:運命の可塑性は内面的修養にあり、外的条件の束縛にあるのではないと。
5. 観察のタイミングに関する科学的示唆
「気色法訣」では、夜明けの頃、洗面や飲食をする前に気色を観察することを求めている——これは実際には変数の統制である:外的干渉(光、食事、感情の動揺)を排除した上で、人の生理的基線状態を観察するのである。この方法論の発想——標準的条件下での観察——は、現代科学の実験設計の理念と一致している。
1. 「神は未だ嘗て生ぜず、神は未だ嘗て死せず」——生命の本質への問い
本巻で述べられる「変じて生あるも、神は則ち未だ嘗て生ぜず。変じて死あるも、神なる者は未だ嘗て死せず」は、深遠な哲学的命題に触れている:意識の本質は肉体の生死を超越するのか。古人の見解では、神は太虚と同体であり、大道のある種の顕現であって、個人の誕生によって生じることも、個人の死によって消滅することもない。この概念は、現代哲学の「汎心論」や一部の量子意識理論と微妙に呼応する。もちろん、これを「魂の不死」と定式化するのは過度な解釈であるが、一つの哲学的問いとして——「意識は単に物質の従属現象に過ぎないのか?」——は、今日においても未解決の問いである。
2. 徳と運命の弁証法的関係
「その身に及ばずとも、必ず子息に及ぶ」——これは中国文化における重要な倫理的仮定である:行為の結果は世代を超えて伝播する。今日では、人の道徳的行為はその社会的ネットワークや子孫の生育環境に影響を与え、その環境がまた子孫の運命を形成する、と理解できる。これは超自然的な力ではなく、道徳的行為が持つ社会的帰結が長期性と拡散性を持つためである。
3. 生と死の脱魔術化と再魔術化
「古の至人は生を以て労佚と為し、死を以て休息と為す」——この観点は、生と死を自然のリズムの一部とみなし、実存主義による死への考察と通じるものがある。ハイデガーは、死を直視してこそ、人間は真に「存在」し得ると考えた。中国古代の至人は、生と死を一種の「来去」と捉えることで、精神的自由を得たのである。この態度は、現代人が死の不安に直面し、人生の意味を探求する上で、今なお重要な示唆を与える。
4. 心術と自由のパラドックス
本巻は、心術が面相に影響し、面相は観察によって心術を判断できると考える。これは決定論を示唆するかのようである。しかし同時に、「心術なる者は、乃ち人の及ばざる所を勉めしむる所以なり」、すなわち心術論の目的は人を善へと勧めることにあると強調する。もし全てが面相によって既に決定されているならば、勧善に何の意味があるのか。この内在的緊張は、伝統的な命理学の核心的パラドックスを反映している:運命の趨勢を認めつつ、人間の能動性を強調する。解決の道筋はおそらく、面相は「過去の蓄積」を反映しており、今まさに始める修養が「未来の面相」を変え得る、という点にある。これは動態的で、開かれた人生観である。
5. 五色・五行と全体論的思考
五色が五行、五臓、五常(仁義礼智信)に対応し、宇宙—身体—道徳の対応システムを構成する。これは中国伝統文化における「天人合一」思想の具体的現れである:人の身体は孤立した生物体ではなく、天地万物と「気」の流通によって相互に関連しているのである。この全体論的思考は、現代の生態哲学や身心医学において再発見され、重視されつつあり、西洋近代以降の心身二元論を超克するための代替的視点を提供する。
| 概念 | 意味 | 本巻との関連 |
|---|---|---|
| 五岳四瀆 | 顔の五つの隆起部位(額、鼻、顎、左右の頬骨)と四本の溝 | 気色は五岳四瀆の上に発する |
| 六神 | 青竜、朱雀、勾陳、螣蛇、白虎、玄武 | 六種の顔の神気状態 |
| 六徳六昧 | 六種の徳性と六種の愚昧 | 神が清ければ六徳多く六昧少なし |
| 亀息 | 呼吸に音がなく、横になっても喘がない | 長寿の相の呼吸特徴 |
| 五色旺相休囚 | 五行の色の季節ごとの強弱状態 | 気色の吉凶を判断する時間的枠組み |
| 準頭 | 鼻の先端部位 | 気色の発現と判断の重要な位置 |
| 天庭 | 額の上方部位 | 官禄と地位の観察点 |
| 印堂 | 両眉の間 | 吉凶判断の核心部位 |
| 霊台 | 心・意識 | 心術の器、原文「吾の霊台」 |
1. 観相と健康
現代医学の研究により、顔の特徴が確かに特定の健康状態を反映し得ることが示されている。例えば:顔色の黄疸は肝胆疾患と関連する。眼瞼の浮腫は腎機能と関連する可能性がある。顔面の浮腫は心血管系の問題と関連する可能性がある。これは伝統的観相学における「気色観」に一定の生理学的根拠を与える。
2. 微表情研究と「神」の観察
アメリカの心理学者ポール・エクマンの微表情研究は、人の内的感情が顔に短時間しか続かない、制御が難しい表情の変化を形成することを証明した。これは中国の観相学における「神は心に蔵され、眉目の中に発現す」という観察と方法論的に類似点がある:いずれも顔の表出を通じて内的心理状態を推測しようとするものである。
3. 人格特質と長期の顔貌との関係
近年の研究の中には、長期的な人格特質と顔的特徴の間に関連性が存在する可能性を示すものがある。例えば、頻繁に笑う人は顔の筋肉に特定の線が形成される。長期的に不安を抱える人は眉間に縦のしわが形成される可能性がある。これは伝統的観相学における「心術、形貌に見る」という理念と通じるものがある。現代の研究は「観相が運命を決定する」という結論を支持しないが、「人格が顔貌を形成する」という方向性の関係には一定の実証的根拠がある。
4. 色彩心理学
五色の吉凶体系は、色彩心理学の枠組みの中で再検討することができる。現代の研究によれば、異なる色彩は異なる心理的・生理的反応を引き起こす。伝統的観相学における「黄気は吉」「黒気は凶」の区別は、健康な肌色と病的な肌色に対する人類の進化的嗜好——健康な肌は黄色みを帯びて潤いがあり艶がある一方、病的な肌は黒ずんでいたり青白かったりする——に部分的に由来する可能性がある。