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全 68 章中 64 章
易经
《易经·系辞上传》
全体意訳
第一章
天は高く上にあって地は卑しく下にあり、乾卦と坤卦の定位はこれによって定まる。卑下と高上の排列がひとたび陳列されれば、貴と賤の名位もそれに従って確立する。動と静には恒常的な規律があり、剛と柔の性質はここにおいて分明となる。物は類に従って互いに集まり、生物は群れによって互いに区別され、吉と凶はこの分合のうちに生じる。天には日月星辰などの天象として現われ、地には山川草木などの形態として現われ、変化はこれらの現象から顕れてくる。
雷霆は万物を鼓動し、風雨は万物を潤し、日月は休みなく運行し、寒暑は交互に移り変わる。乾道は化育して男性となり、坤道は化育して女性となる。乾は万物の創始を主導し、坤は万物の生成を成就する。乾は平易によって知ることができ、坤は簡約によって成すことができる。平易であれば容易に理解され、簡約であれば容易に従うことができる。容易に理解されれば人を親しませることができ、容易に従えば功業を打ち立てることができる。人に親しまれれば長く続き、功業を打ち立てることができれば宏大となる。長く続くことができるのは賢人の徳であり、宏大となることができるのは賢人の事業である。平易と簡約は、天下の道理に通達するものであり、天下の道理を掌握すれば、天地の間に自己の位置を確立することができる。
第二章
聖人は卦象を設けてその象徴的意味を観察し、卦爻のもとに文辞を繋いで吉凶を明らかにし、剛柔の相互推演によって変化を生じさせる。それゆえ、吉凶は得失の象徴であり、悔吝は憂慮の象徴であり、変化は進退の象徴であり、剛柔は昼夜の象徴である。六爻の変動は、天地人の三極の法則を体现する。だから君子が身を安んじ命を立てるよりどころとするのは、易の秩序であり、楽しんで玩味するのは爻の文辞である。君子は安坐しているときには卦象を観察して文辞を玩味し、行動するときには変化を観察して占断を玩味する。それゆえ上天の護佑を得て、吉祥にして往きて利ならざるはない。
第三章
彖辞は卦象を説明するものであり、爻辞は変化を説明するものであり、吉凶は得失を説明するものであり、悔吝は小さな過ちを説明するものであり、無咎は過ちの補い方をよくすることを説明するものである。だから貴賤の分列は爻位にあり、大小の判定は卦体にあり、吉凶の弁別は文辞にあり、憂慮と悔吝は細微のところの審察にあり、震動して無咎は悔悟にある。それゆえ卦には大小があり、辞には険と易がある。文辞は、それぞれが指し示す方向を指し示すのである。
第四章
易道は天地と斉しく、ゆえに天地の法則を普遍的に包摂することができる。仰いでは天文を観察し、俯しては地理を観察し、それによって幽暗と光明の理由を知る。事物の起始を推し、事物の終結を返り求めることにより、死と生の道理を知る。精気は凝りて物となり、游魂は散じて変となり、それによって鬼神の情状を知る。易道は天地と相似するので、自然に背かない。知恵は万物に周遍し、道義は天下を救済するので、過失がない。四方に通行して流蕩せず、天の命を楽しみ知って憂えず、置かれた環境に安んじて仁愛を厚くするので、広く愛することができる。天地の化育を範囲として偏失なく、万物を曲成して遺漏なく、昼夜の道に通達して智恵があり、それゆえ神妙にして方所なく、易道は固定した形体がない。
第五章
一陰一陽の対立転化を道と謂い、この道を継ぐものを善と謂い、この道を成就するものを性と謂う。仁者はそれを見て仁と謂い、智者はそれを見て智と謂い、百姓は日常に用いながら知らない。ゆえに君子の道を全面的に認識できる者は稀である。道は仁徳のうちに顕れ、日用のうちに潜み、万物を鼓動して成長させ聖人とともに憂えず、盛大な徳と偉大な事業は極致に達する。豊かであることを大業と謂い、日々新たにすることを盛徳と謂う。生生として息まないことを易と謂い、天象となることを乾と謂い、大地に法らうことを坤と謂い、数理を窮めて未来を予知することを占と謂い、変化に通達することを事と謂い、陰陽の変化が測り知れないことを神と謂う。
第六章
易道はなんと広大なことか!遠いところを言えば、それは際限がない。近いところを言えば、それは静かで端正である。天地の間を言えば、それは備えないところがない。乾卦は静止するとき専一であり、運動するとき剛直であり、ゆえに大ききを生じることができる。坤卦は静止するとき閉じ、運動するとき開き、ゆえに広きを生じることができる。広大は天地に配され、変通は四時に対応し、陰陽の意義は日月に配され、平易簡約の善性は至徳に配される。
第七章
孔子が言った:「易道は極致に達しているなあ!」易は聖人が徳を推崇し事業を拡大するために用いるものである。知恵は崇高で礼節は卑下し、崇高は天に效い、卑下は地に效う。天地が位置を定めれば、易道はそのうちに運行する。本性を成就し、存养を存養すること、これが道義の門戸である。
第八章
聖人は天下万物の深奥で複雑なことを見て、その形態容貌を比拟し、その事物の宜しきところを象徴し、それゆえに象と謂う。聖人は天下万物の変動を見て、その会合通達のところを観察し、もってその礼法を施行し、文辞を繋いで吉凶を断定し、それゆえに爻と謂う。天下で最も幽深な事物を言説しても厭きることがなく、天下で最も複雑な変動を言説しても乱れることがない。まず比拟してから言説し、まず議商してから行動し、比拟と議商によってその変化を成就する。
「鶴が幽陰のところで鳴けば、小鶴が呼応して和す。我有る美酒あらば、与に同じくして汝と酔わん。」孔子が言った:「君子が室内に居て、善き言葉を言えば、千里の外の人もまた応和する、況んや近き者のみにあらんや。室内に居て、不善の言葉を言えば、千里の外の人もまた背く、況んや近き者をや。言葉は自身から出て、影響は百姓に及ぶ。行いは近きところから発し、影響は遠きところに及ぶ。言行は君子の枢機であり、枢機の発動は、栄辱の主宰である。言行は、君子が天地を動かすために用いるものである、どうして慎しむべきでないことがあろうか。」
「同人卦、先に号啕して哭し後に笑う。」孔子が言った:「君子の道は、あるいは仕えあるいは隠れ、あるいは黙しあるいは語る。二人心を同じゅうすれば、その利は金属をも断ち切ることができる。心を同じゅうする言は、その味わいは蘭の花のように芳しい。」
「初六:白茅を以て祭品の下に敷く、咎なし。」孔子が言った:「直接地面に置いてもよい、況んや白茅を以て敷くことをや、なんの過失があろうか。これは慎重の極みである。茅は物品として微薄であるが、その用途は偉大であり得る。慎重にこの方法に従って行えば、過失ということはないであろう。」
「功労がありながら謙遜する君子は、善き終わりがあり、吉祥である。」孔子が言った:「勤めても自ら誇らず、功績があっても自ら徳と思わない、これは敦厚の極みである。功績がありながら人に甘んじて下れる者を言うのである。徳は盛大であることを講じ、礼は恭敬であることを講じる、謙遜とは恭敬に務めて自己の地位を保つ者である。」
「亢龍悔いあり。」孔子が言った:「尊くして職位がなく、高く上にあって民衆がなく、賢人が下位にいて輔ける者がなく、それゆえ一たび行動すれば悔いが生じる。」
「門戸の庭を出でず、咎なし。」孔子が言った:「禍乱の発生は、言葉を階段とする。君主が機密を守らなければ、臣子を失う。臣子が機密を守らなければ、生命を失う。機密の事を慎しまなければ、成功を妨げる。それゆえ君子は慎んで密を守り泄露しない。」
孔子が言った:「易を作った者はおそらく盗賊を知っているのだろう?易に言う:『背負いながら車に乗る、盗賊を招き来たらす。』背負うことは小人の事柄である。小人の身分で君子の車駕に乗る、盗賊は奪い取ろうと考える。上位にある者が傲り、下位にある者が暴虐であれば、盗賊は討伐しようと考える。財物を慢んじて蔵すれば盗みを教えることになり、容姿を冶めて装えば淫乱を教えることになる。易に言う『負且乘,致寇至』とは、盗賊が自ら招かれたものだと言うことである。」
第九章
天数は一三五七九であり、地数は二四六八十である。天数は五つあり、地数は五つあり、五組の数字は各々その位を得てそれぞれに匹配がある。天数の和は二十五、地数の和は三十、天地の数の総計は五十五、これが変化を成就し鬼神を運行させる根本である。
大衍の数は五十、使用するとき四十九本の蓍草を取る。二つに分けて天地の両儀を象り、一分から一本を取って指の間に架けて三才を象り、四本ずつ数えて四時を象り、余りを指の間に挟んで閏月を象り、そして再び操作する。乾卦の策数は二百一十六、坤卦の策数は百四十四、合計すると三百六十、一年の日数に相当する。上下両篇の策数は一万一千五百二十、万物の数に相当する。それゆえ四回の营作を経て一変が完成し、十八変を経て一卦が形成され、八卦は小成である。これによって引申拡張し、類に触れて通じて之を推し広めれば、天下一切の事物の可能性が盡くされる。易道は神妙なる徳を顕彰することができ、それゆえ人事に対応でき、神明の造化を補佐することができる。孔子が言った:「変化の道を知る者は、おそらく神明の作為をも知るのだろう!」
第十章
易には聖人の道が四つの方面ある:言説に用いるのはその文辞を崇め、行動に用いるのはその変化を崇め、器物を製造するのに用いるのはその形象を崇め、卜筮に用いるのはその占断を崇める。それゆえ君子がまさに有所為とし、まさに有所動としようとするとき、言葉をもって易に問えば、易は使命を受け入れること響きの如く、遠近幽深を問わず、未来の事物を推知することができる。天下で最も精粋な道理でなければ、誰がこの境地に達することができようか。三五が交錯してその変化を盡くし、錯綜してその数字を推演し、その変化に通達すれば、天地の文彩を成就することができる。その数字を窮め盡くせば、天下の形象を定めることができる。天下で最も変化に優れた者でなければ、誰がこの境地に達することができようか。易そのものは思慮なく、作為なく、寂静にして動かず、感じ応じれば天下の事理に通達する。天下で最も神妙な者でなければ、誰がこの境地に達することができようか。易は聖人が深奥を窮め精微を研究するために用いるものである。深奥であるがゆえに、天下の心志に通達することができる。精微であるがゆえに、天下の事務を成就することができる。神妙であるがゆえに、急がずして速く、行かずして至る。孔子が「易に聖人の道が四つある」と言ったのは、このことを言うのである。
第十一章
孔子が言った:「易は何をするものなのか。易は万物を開き事務を成就し、天下の大道を覆い包含する、ただそれだけのことである。」それゆえ聖人は易を用いて天下の心志に通達し、天下の事業を定め、天下の疑惑を決断する。蓍草の性質は円通にして神妙であり、卦体の性質は方正にして智慧であり、六爻の意義は変化によって告げ知らせる。聖人はこれによって内心を洗い清め、隠秘なところに退蔵し、百姓とともに患難を憂える。神妙は未来を予知することができ、智慧は過去を蘊蔵することができる、誰がこの境地に達することができようか。古の聡明睿智、神武にして残暴ならざる者たちであろう!
それゆえ、天道を明らかにして民情を洞察し、ここにおいて神妙なる物(蓍亀)を作り百姓の行いを導く先導とした。聖人はこれによって斎戒し、その徳行を神明にする。だから、門戸を閉じることを坤と謂い、門戸を開くことを乾と謂う。一閉一開することを変化と謂い、往来が窮まらないことを通と謂い、顕れ出ることを象と謂い、形体を有することを器と謂う。製造してこれを用いることを法と謂う。出入りに利用され、百姓がみな用いることを神と謂う。
だから易には太極があり、太極は両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生じ、八卦は吉凶を判じ、吉凶は大業を成就する。だから效法する形象で天地より大きいものはなく、変通で四時より大きいものはなく、懸けられた天象が明らかに示すもので日月より明らかなものはなく、崇高さで富贵より大きいものはなく、物品を準備して人の用に供し、器具を製造して天下の利益を図ることで聖人より大きいものはない。幽深を探索し、隠微を捜尋し、深遠を鉤取し、もって天下の吉凶を定め、天下の勤勉不倦なる事務を成就することで、蓍亀より大きいものはない。
だから天は神妙なる物(蓍亀)を生じ、聖人はそれを掌る。天地は変化し、聖人はそれに效う。天は天象を垂れて吉凶を示し、聖人はそれを模する。黄河に図が現われ、洛水に書が現われ、聖人はそれを取り法る。易には四象があり、だから人に示すために展示する。文辞を繋ぐのは、だから人に告げるためである。吉凶を定めるのは、だから決断を下すためである。
第十二章
易に言う:「天より之を佑け、吉にして利ならざるはなし。」孔子が言った:「佑とは助けるという意味である。天が助けるのは天道に順う者であり、人が助けるのは誠実な者である。誠実を履行し、思慮が天道に順い、また賢徳を尚ぶ。それゆえ天より之を佑け、吉にして利ならざるはない。」
孔子が言った:「文字は言語を完全に表せず、言語は心の意を完全に表せない。それなら聖人の心の意は見ることができないのだろうか。」孔子が言った:「聖人は卦象を設けて心の意を完全に表し、卦爻を設置して真偽を完全に示し、文辞を繋いで言語を完全に表し、変化通達してもって利益を完全に発揮し、鼓動推進してもって神妙を完全に発揮する。」
乾坤は易道の蘊蔵するところであろうか。乾坤が排列されれば、易道はそのうちに立つ。乾坤が滅びれば、易道を見ることができない。易道が見えなければ、乾坤もほとんど止息してしまうであろう。だから形而上のものを道と謂い、形而下のものを器と謂う。化育して裁制することを変と謂い、推し広めて行うことを通と謂い、取り上げて天下の百姓に施行することを事業と謂う。
だから、象は聖人が天下の深奥で複雑なことを見て、その形態を比拟し、その事物の宜しきところを象徴したものであり、だから象と謂うのである。聖人が天下の変動を見て、その会通のところを観察し、もってその典章礼制を施行し、文辞を繋いで吉凶を断定したものであり、だから爻と謂うのである。天下で最も深奥な道理を窮め盡くすのは卦にあり、天下の行動を鼓動するのは辞にあり、化育して裁制するのは変にあり、推し広めて行うのは通にあり、神妙にして明達するのは人にあり、黙々と成就し、言わずして誠信たるのは徳行にある。
「乾は易をもって知られ、坤は簡をもって能とする」ことは深い道理を明らかにしている。複雑な現象の背後には往々にして単純な法則が存在する。現代物理学は統一場理論を追究し、生物学はDNA二重らせん構造の発見によって生命の遺伝メカニズムを説明できるようになった。これらはすべて「易簡」の原則が科学において体現されたものである。情報過多の現代社会において、「易簡」はさらに一つの認知的戦略——複雑な世界に直面し、最も簡潔な説明モデルを探し求めること——なのである。
吉凶悔吝と意思決定心理学
「吉凶とは、得失の象なり」——吉凶は外在的な神秘的な力ではなく、得失の心理的体験である。「悔吝とは、憂虞の象なり」——悔吝は内心の憂慮が外的に表れたものである。このように吉凶を内面化する考え方は、ダニエル・カーネマンのプロスペクト理論(人が得失に直面したときの心理的バイアス)と深い共鳴を起こしている。易の知恵は、まず得失の動態を察知し、それから選択を行うことにある。
言行の枢機と話語言説の倫理
孔子の「鳴鶴在陰」についての解釈:「言は身より出でて、民に加わり、行は邇より発して、遠に見る。」現代のソーシャルメディア時代において、この言葉の警告的意義は極めて顕著である。一つの言論が数秒のうちに全世界に伝わり、その影響力は話し手自身の物理的範囲をはるかに超える。「枢機の発するや、榮辱の主たり」——言辞の発動は栄辱の鍵であり、これはまさにデジタル時代における話語言説の倫理の中核である。
太極生成論と創発理論
「易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」——この統一から分化への生成モデルは、現代の複雑性科学における創発理論と高度的に合致する。単純な初期規則が層層の反復を経て、高度に複雑な構造や行為を生み出すことができるのである。太極は静止した原点ではなく、あらゆる可能性を内包する情報源である。
「心を洗いて退藏す」と認知的瞑想
「聖人はこれをもって心を洗い、退いて密に蔵す」——易道の修養を通じて心を洗い清め、内在的な静けさへと回帰する。これは実際には一つの認知的調節メカニズムである。重大な決定を下す前に、認知的バイアスを除去し、中性的な状態へと戻ること。マインドフルネス瞑想の核心理念と頗る類似している。
意思決定フレームワーク:象を観る—辞を玩ぶ—変を観る—占を玩ぶ
繫辞は現代人に構造化された意思決定プロセスを提供している:
| ステップ | 原文 | 現代的应用 |
|---|---|---|
| 1. 現状の観察 | 「居てはその象を観る」 | 情報を全面的に収集し、現在の状況の全体像を描く |
| 2. 言語的記述の分析 | 「その辞を玩ぶ」 | 各方の表現を精査し、言葉の背後にある事実と感情を弁別する |
| 3. 変化の趨勢の識別 | 「動けばその変を観る」 | 変数とトレンドを追跡し、静的な判断に固執しない |
| 4. 可能な結果のシミュレーション | 「その占を玩ぶ」 | 仮説—演繹—振り返りを通じて結果を予測する |
言行管理:枢機の法則
孔子は言行が「榮辱の主」であることを繰り返し強調した。職場や対人関係において:
職場における易簡の原則の応用
複雑なプロジェクトや人生の選択に直面したとき、次のことを試みることができる:
「天より自ら祐く」の実践的知恵
「天の助くる所の者は順なり、人の助くる所の者は信なり。」客観的な法則に順応する+対人的信頼を構築する=「天の助け」と「人の助け」を得る。これは迷信ではなく、一種の二重条件充足論である。すなわち、正しいことをする(順)と同時に、正しく物事を行う(信)ことである。
道と器の関係:形而上学の中国の解答
「形而上なるものを道と謂い、形而下なるものを器と謂う」——この命题は中国哲学史において画期的な意義を持つ。西洋哲学はプラトン以来、長らくイデア界と現象界を分離してきたが、『繫辞』の進路は次のようなものである:道は器を離れず、器の中に道あり。道は現象界から遊離した抽象的実体ではなく、具体的な事物の中に貫く運行の法則なのである。この「即体即用」の思考様式は、現代のプロセス哲学(ホワイトヘッドなど)や具現的認知に対して、古来からの対話相手を提供している。
「一陰一陽、これを道と謂う」と弁証法
ここでの「道」とは陰陽の外にある第三者の何かではなく、陰陽の交替そのものである。ヘーゲル弁証法の正—反—合とは異なり、中国式の弁証法は正—反—化である。陰と陽はより高次の「合」によって止揚されるのではなく、絶え間ない相互転化の中で万物を生成するのである。「これを継ぐ者善なり、これを成す者性なり」——善とは静的な道徳基準ではなく、道を継承することであり、性とは先天的に固定された本質ではなく、道を成就することである。これは一種の生成論的人間観であり、固定的本質に対する現代ポスト構造主義の批判と呼応する。
「生生これを易と謂う」とプロセス存在論
宇宙の本質は「存在」ではなく「生成」である。「生生」とは二つのレベルの生である。生命の産出であると同時に、生命が生命を生み出すプロセスでもある。このプロセス存在論はいかなる静止した終極的実体をも否定し、万物は関係の中で生成し転化する。ハイデガーの「存在と時間」への思索、ドゥルーズの「生成論」とは、時空を超えた哲学的共鳴を形成している。
「神は方なくして易は体なし」と超越性の内在化
易道の神妙さには固定した方位がなく、易道そのものに固定した形体もない。神性とは外在的な超越者ではなく、内在的な汲めども尽きぬ奥深さである。「仁に顕れ、用に蔵る」——道は日常の中で顕現するが、完全に把握することはできない。この内在的超越の哲学的立場は、現代人が世俗生活の中で意味を探し求めるための理論的資源を提供している。聖なるものは彼岸にあるのではなく、現在の日常生活の中にあるのである。
「心を洗いて密に退藏す」と主体性の再構築
易の実践は外的な占術技術だけでなく、一つの主体的修養でもある。「心を洗う」ことによって認知的汚染を取り除き、「退藏」によって内在的な清明へと回帰することで、主体ははじめて道と通じ合うことができる。これはフーコーが後期に注目した「自己の技術」と期せずして一致する。特定の実践方式を通じて、主体は自己を形成し、自己を変容させるのである。
関連概念
発展的読書
現代研究