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壬归
望みごとの占いは種類が多く、占う事柄が異なれば、取り用いるべきものもそれぞれに適したものがある。類に従って情勢を審らかに察すれば、多言は要らない。しかしながら「勢」と「利」の二字は、実に世の中で最も先行することであり、望みごとの中でも最も急を要するものである。故に巻頭においてまず官高き者に頼み財を求めることを第一とし、詳しく述べるのである。もし肝要な点を捉え、要領を洞徹すれば、網の綱を挙げれば目の全てが開くように、あらゆる種類の占断に難渋することはないだろう。類によって触れて通ずることは、全て学者の悟りにかかっている。
いわゆる「幹」とは、人が赴いて求めることであり、空しく求めることではない。いわゆる「求」とは、人に向かって求めることであり、漫然と目的なくすることではない。人と我とが交錯して現れれば、まさに向かい合う象を成す。吉凶や可否は、まさにこの「成象」の間においてまず推し求めるべきである。成象の端緒は、まず日辰を見る。そして用伝(三伝)と年命は、扶け救い、終始を通貫する「通象」である。いわゆる「貴」にはその類があり、「財」にもまたその類がある。そして気の有無は、克応の必須の条件である。
日は動を主り、我が方を代表する。辰は静を主り、相手方を代表する。辰上の神をもって相手方を観じ、日上の神をもって我が方を観る。我が方が人を訪ねて求めるのは動の象であり、故に「幹」と称する。もし日上の神と辰上の神が生じ合えば吉であり、天将が吉で気数が旺んなれば更に吉である。戦いて克たれれば凶であり、天将が凶で気数が囚えられ休すれば更に凶である。相刑であれば互いに気が合わず、相冲であれば合致し難く、相害であれば妨げがあり、相破であれば成し遂げるところがない。乗臨の関係は固然詳しく察すべきだが、陰神もまた顧慮しなければならない——旺相休囚は五気をもって論じ、吉凶は神将をもって論じる。
辰上の神が克され傷つけられていれば、相手方は自らまさに困窮のうちにあり、どうして己を捨てて人に従うことができようか。もし更に囚死・空亡に逢い、あるいは脱害が交々加われば、赴いても必ず益がない。日上の神が克され傷つけられていれば、我が方の事がまさに乖違して順わず、どうして身を潔くして他へ往く暇があろうか。もし更に凶神・空亡・無気に逢い、あるいは刑害が併せ見えれば、徒らに自ら疲れるのみである。
もし辰上の神が日幹に生じ合うが、その陰神が辰上の神を克していれば、相手方は助けようとする心はあっても、畏れ憚るところがあって敢えて動かず、頼るに足りない。辰陰の所乗の天官が、すなわち相手方が畏れる人、憚る事柄である。陰に太常を乗せていれば父母や尊長への畏れがあり、天后を乗せていれば婦女への畏れがあり、太陰を乗せていれば兄弟への畏れがあり、勾陳を乗せれば争い事を忌み、朱雀を乗せれば口論の事を忌む等々である。もし辰陰と辰陽とが生じ比し、そしてまた日幹と合を成せば、相手方の内部に必ず助ける人があり、暗に取り持つ者があろう。取り持つ人も、辰陰の所乗の天官をもって推断する。
以上は対待の大体を認識する法則であり、理として当然、勢いとして必然であり、故に「成象」と称する。およそ人と我とに関わり、対待の象ある事は、全て当に此処から推し求めるべく、何も望み事に限らない。大体の吉凶が既定まれば、然る後に通象を求むべく、もって扶救を言い、もって終始を決する。故に用伝・命・年は、成象に継いで詳論するのである。
休咎の機は、発用(初伝)に関わる。転移の妙は、中伝に在る。末伝は終結・帰趨の所である。三伝には出入の異なりがあり、吉凶はこれによって分かれる。扶救は用伝に在るといえども、緊要の鍵は年命に在る。凡そ占うには皆当に詳察すべく、故に「通象」と称する。
初伝の所乗の神が吉気に乗じて旺相であり、また別に傷損が無ければ、吉をもって応じ、その応験は速やかである。気の旺なるが故である。囚死して凶に乗じ、また戦克に遭えば、凶をもって応じ、その応験は遅い。気の休するが故である。吉なれば順い従い、凶なれば避け、空なれば形がなく、吉凶とも成らず、論列のうちに在らない。気の衰旺は五気をもって言い、用の戦克は神将をもって言う。
初伝が日支に生じ合して日幹を刑傷すれば、利は彼方に在り、害は我が身に在る。日幹に合して日支を刑傷すれば、利は我が方に在り、害は彼方の身に在る。彼方に害が在れば、往いて求めるに利あらず。我に害が在れば、往かずしてまた何の災いがあろうか。これが「休咎の機は、発用に関わる」の意味である。
初伝が日幹に対して吉であっても、その陰神が初伝を克すれば、用神の力は比較的微弱である——用は吉なりとも、頼るに足りない。惟だ用が日幹に対して凶なる時に当たっては、反って陰神が初伝を克するを利とし、凶を転じて吉と為すことができる。初伝は吉であっても、陰神が墓に入るか空亡すれば、中途に阻まれて行き難き象があり、事は速やかに図るに宜しく、緩めてはならない。これが「転移の妙は、中伝に属する」の意味である。
墓より伝えて生に至り、末伝が吉旺に逢えば、終に成すことができる。生より伝えて墓に至り、末伝が凶休に遇えば、終に止み息むであろう。辰上の神に吉なれば、彼方が利を得、日上の神に吉なれば、我が方がその功を獲る。
凡そ初伝が墓を経て末伝を克し、末伝が日幹を克する者は、用は生なりとも幹を生ずるも、頼るに足りない。然れどもその日に対することは禍が比較的遅く、見るに速やかであるを宜しとし、もって初伝の生に就く。
末伝が墓を経て初伝を克し、初伝が日幹を克する者は、生は末伝に見ゆとも、頼るに足りない。然れどもその日に対することは禍が必ず速く、見るに早きを宜しとし、もって初伝の克を避く。
凡そ日幹が初伝を生じ、初伝が晩く末伝を生ずる者は、終には利ある所にあらず。源消えて根断ゆるのみならず、鬼が末伝に在る。
凡そ末伝が早く初伝を生じ、初伝が日幹を生ずる者は、凡そ事は成る有り。傍らより助けあるのみならず、財が末伝に在る。
凡そ支上より発用し、幹上に伝わりて、能く日幹に生じ合う者は、相手方が我に親しもうとする心があり、往いてこれを求むることができる。幹上より発用し、支上に入り伝わりて、そしてまたこれに生じ合う者は、我が方に相手を親しもうとする象があり、往くも咎なし。これが「出入の異なり、去就の攸分かつ所」である。
本命は生平を主り、行年は気運に関わる。久しきと暫しとの違いはあれど、実に占う者の独り有するところである。本課伝のうちにおいて分かち視れば、各々に専司がある。命年を合わせて比較推求すれば、まさに己れに切なる所となる。故に日用(日幹と用神)は傷残るべからず、年命は最も和やかなるを良しとする。日幹と行年とが交互に克し合えば、自ら乖違を招く。本命が辰上の神に傷つけられれば、我が利にあらず。惟だ本命が能く描く所の類神を克すれば、また財と言うことができる。類神が本命・行年を克すれば、鬼をもって論ずべきである。これが「扶救は三伝に在るといえども、緊関は則ち年命に由る」の意味である。
事が干求に関われば、可否は象の内において断ずるといえども、情が得失に関われば、吉凶は更に類神の中より推し求める。象が吉にして類が凶なれば、象は全く頼るべからず。類が吉にして象が凶なれば、類もまた憑り難い。両者は相需て併用し、占法はここにおいてようやく完備する。吉あり凶なきに及びて、まさに進取すべく、吉凶可否を豈に軽んじて言うべけんや。
干く所が既に貴人なれば、則ち類とする所は天乙である。天乙が上に吉旺に乗ずれば、則ち「時に乗ず」と為す。また吉旺の地に履めば、則ち「地を得たり」と為す。既に天時に乗じ、又地の利を得て、而も日幹に生じ合すれば、則ち貴人はまさに権柄に在り、勢は実に我が方に在る。その心は実に能く相制し、その力はもって心のままにすことを足る。もし貴陰と貴神との両処にまた生扶を見れば、則ち更に全吉と為す。此に反すれば妄りに求むるに宜しからず。
求むる所が既に財帛なれば、則ち類とする所は青竜、すなわち日幹の克する所の神である。財神(神)と財将(天将)とが深く蔵せず、また内外に刑戦せず、上下に空亡・休囚に逢わず、而して財陰と財神との両処がまた日幹に生じ合すれば、則ち望む所は奢るといえども、之を求めて得べくして、后患がない。此に反すれば妄りに求むるに宜しからず。
類陰が吉を得れば、宜しく往いて求め取るべし。往くは必ず求むる所があり、求むるは必ず類神がある。凡そ貴人に文書・権柄の事を求むるは、已に貴人天乙を見るも、又当に分けて朱雀を見るべし。情分の求めある者は、太陰を分けて見る。衣帛・穀粟の求めある者は、太常を分けて見る。恩沢・婦女の求めある者は、天后を分けて見る——これらを類将と称する。
珠玉を求むる者は、従魁(酉)を見る。弓矢・剣戟を求むる者は、伝送(申)を見る。図書・傘蓋を求むる者は、登明(亥)を見る。書籍を求むる者は、功曹(寅)を見る。雁羊・酒食を求むる者は、小吉(未)を見る。墓田を求むる者は、大吉(丑)を見る。魚塩を求むる者は、天罡(辰)を見る。犬馬を求むる者は、天魁(戌)と勝光(午)を見る——これらを類神と称する。
類将を見るには、吉凶は所乗の神に在る。もし神がその将を克せば、将はすなわち権がなく、力はすなわち減ず。神が日幹を傷つければ、将もまた従いて之を傷つけ、類神はすなわち凶となる——徒に益なきのみならず、反って損あり。何ぞ必ずや求めることがあらん。類神を見るには、精神は天官に在るといえども、力量は気と地とによって定まる。天官がたとえ凶悪の神でなくとも、気と地とが凶休に値する者は、類神は現るといえども、取るに足りない。
凡そ君主に干く者は、当に太歳の上下を視るべし。省府に干く者は、当に月建の上下を視るべし。尊長に干く者は、当に日徳の上下を視るべし。もしすなわち時に乗じ地を得て、而又日幹に生じ合すれば、則ち信任は必ず専らに、而して恩沢は自然に厚く、往くも可なり。此に反すれば栄を求めて辱を得るの患いがあり、往いて何の益かあらん。
吉凶の諸煞に至っては、克応の必ず需むる所ではあれど、実に衆象に因りて各々相能の用あるが故に、膠柱鼓瑟して看るべからず。神煞の暦書は俱に在り、わざわざ述べるに及ばない。
約めて言えば、過ぎざるは:四課は人我の情を定め、三伝は終始の要を決し、類神・類将は事を指して専らに求め、本命・行年は相参して比較し、諸神煞は克応に関わる。精誠すれば自ら通霊すべし——ここに至って已にその要を述べ尽くした。
明吉にして凶に遁るる(表面は吉にして暗に凶を蔵す)に至っては、必ずその暗損を防がねばならない。明凶にして吉に遁るる(表面は凶にして暗に吉を蔵す)には、なおその黙然たる益がある。陰神の休咎は、繋る所軽しとせず。気地の興衰は、関わる所最も切なり。生克制化の妙は、位置を換うれば便ち形態を異にす。軽重虚実の微は、牆に騎して幻影を見るが如し——これらは皆、占断において看過し易く、謀望の占いの中で最も当に詳察すべき所である。故に「帰約」の末に、特に蔽(ひら)いて示すのである。
1. 対待成象——四課が人我を定める
原文の最も核心的な方法論は、一切の謀望占断を「人我対待」の象に帰約することにある。日は我と為し、辰は人と為し、日上の神と辰上の神の関係をもって双方の態度と互動の吉凶を判断する。これは単純な吉凶判断ではなく、人間関係における相手方の境遇・我が方の状態・互いの意向の全息的把握である。
2. 三伝通象——過程と始終
発用(初伝)は休咎の機を定め、中伝は転移の鍵と為り、末伝は終結の帰趨と為る。三伝の間にはまた「出入の異なり」があり——支上より伝えて幹上に出づるは、幹上より伝えて支上に入るとは、意味が截然と異なる。これは古人が事物発展の動態過程に対する深い理解を体現している:吉凶は一成不変ではなく、転折があり、変化があり、始終がある。
3. 類神・類将——具体化取用
「象」は大体の吉凶を定め、「類」は具体的な得失を定める。両者は相需て併用し、一も欠くべからず。象吉にして類凶なれば、全く恃むべからず。類吉にして象凶なれば、また憑信し難い。この二重検証の思考方式は、方法論上極めて示唆に富む。
4. 陰神・気地——暗中の機
全篇を通じて陰神・気地の重要性を繰り返し強調し、「明吉にして凶に遁るるは、必ずその暗損を防ぐべきであり、明凶にして吉に遁るるは、なおその黙益有り」と指摘する。この表面の下の暗流への注目は、六壬占断の精妙なる所であり、古人が事物の複雑性に対する深い認識を体現している。
「干貴求財」から現代の人間関係と資源獲得へ
古代の「干貴求財」は、本質的には上向きの社交と資源の争取の占断である。現代の文脈に置き換えれば、「干貴」は求職活動・面接・上司の支持獲得・協力先の模索・上層部への提案など、一切の他者に資源や承認を求める行為に相当し、「求財」は商業的交渉・投資決定・プロジェクト獲得などの領域に相当する。
原文が提示する枠組みは現代の場面においても有効である:
脱迷信化した理性的解読
原文は本来、体系性の極めて高い占断方法論の著作であり、鬼神迷信の色彩はほとんどない。その論理の核心は人事関係と発展過程を模擬する一連の符号体系を確立することにある。理性的思考の枠組みの下で、この体系の価値は:
決定支援の枠組み
原文の占断論理を現代の実行可能な決定チェックリストに転化する:
| 古代概念 | 現代的対応 | 重要問題 |
|---|---|---|
| 日上の神 | 自身の状態 | 私は赴いて争取する条件を備えているか? |
| 辰上の神 | 相手方の状態 | 相手方に私の需要を満たす能力と意思があるか? |
| 辰陰 | 相手方の内情 | 相手方内部に妨げまたは助力の要素があるか? |
| 初伝 | 第一歩の行動 | 現在の時機は適切か?速やかにすべきか遅らせるべきか? |
| 中伝 | 過程の変数 | 途中でどのような転折が起こり得るか? |
| 末伝 | 最終結果 | 最終結果は誰に有利か? |
| 類神 | 具体的目標 | 私は一体何を求めるのか?その目標自体は得られるべきものか? |
| 年命 | 個人的条件 | 私の長期的運勢と当年の気運はこの事を支持しているか? |
実務的アドバイス
「对待成象」と間主観性
原文の冒頭で「日動は我となり、辰静は人となる」、「人我が錯陳すれば、則ち対待に象あり」と述べられている。このようにすべての謀望を人我関係の中で考察する思考様式は、当代哲学における間主観性という概念と深く呼応するものである。吉凶は客観的に事物そのものに存在するのではなく、主体間の相互作用の関係の中から生じる。一事の成否は、一方の意思や能力のみに依存するのではなく、双方の状態の適合と相互作用に依存するのである。
「通象」とプロセス哲学
「休咎の幾は発用に関わり、転移の妙は中伝に属し、末は底止の郷となす」——三伝の構造は、古人の時間性への理解を明らかにしている:事物は静的な存在ではなく、時間の中で展開していくプロセスなのである。初・中・末の三伝は三つの孤立した時点ではなく、一つの連続した発展の軌跡であり、そこには因果関係(遞克・遞生)もあれば、転換の可能性(転移の妙)もある。これはホワイトヘッドのプロセス哲学における「現実の実在は一つのプロセスである」という見解と対照し得るものである。
「明吉遁凶」と表裏の弁証
「明に吉にして凶に遁るるは、是れ必ずその暗損を防ぐべきなり;明に凶にして吉に遁るるは、なおその黙益あるべきなり」——これは中国古代思想における表裏不一の観念の占筮的表現である。表面と内奥、顕と隠、明と暗の弁証法的関係は、『老子』の「大巧は拙なるが若く、大弁は訥なるが若し」や、『易経』の「幾を知るは其れ神ならずや」などの古典にも見られる。謀望占において特に陰神を重視するのは、こうした「陰を重んじ隠を察する」思考の具体的な実践なのである。
「類」の思考様式
原文第五部の「引伸」は、中国古代の類比的思考の精妙さを示している:珠玉→従魁、弓矢→伝送、図書→登明、書籍→功曹——それぞれの具体的事物が、巨大な象徴体系の中に組み込まれていくのである。この思考様式は一見「迷信」のようでありながら、実は高度に構造化された記号映射システムであり、その背後にある論理は、世界を相互に関連づけ合う一つのネットワークとして捉え、いかなる事物もネットワークの中で位置づけられ、他事物との関係を構築できるというものである。