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全 10 章中 2 章
难经
問:十二経すべてに動脈があるのに、なぜ単独で寸口(手首の橈骨動脈部)を取り、五脏六腑の生死吉凶を判断するのか。
答:寸口は脈気が大会する場所であり、手太陰肺経の脈動するところである。人の呼気で脈は三寸行き、吸気で脈は三寸行き、一呼一吸を一息とし、脈は六寸行く。人は一日一夜に約一万三千五百息し、脈気は五十周運行し、全身を循環する。漏水下百刻の間、営衛(営気と衛気、おおよそ栄養の気と外邪を防ぐ気と理解してよい)は昼間は陽を二十五周行き、夜間は陰を二十五周行き、合わせて一周となる。したがって五十周後、再び手太陰肺経に会する。寸口は五脏六腑の気血運行の終始するところであるため、脈診は寸口を取るのである。
問:脈に「尺寸」の区別があるとは、どういう意味か。
答:尺寸は脈診の重要な境界である。関(手首の後方の高骨のところ)から尺沢の方向を尺部とし、陰の主宰するところに属す。関から魚际の方向を寸部とし、陽の主宰するところに属す。したがって関から尺を分かち、尺から寸を分かつ。陰は尺内の一寸を得て、陽は寸内の九分を得て、尺寸が合わせて一寸九分となるので、「尺寸」と称するのである。
問:脈には太過、不及があり、陰陽の相乘があり、覆、溢、関、格があるとは、どういう意味か。
答:関の前は陽脈の搏動するところであり、正常では九分見えて浮であるべきである。これを超える者を太過とし、足りない者を不及とする。脈象が上方へ魚际を越えるのを溢といい、「外関内格」であり、これは陰気が陽に乗る脈象である。関の後ろは陰脈の搏動するところであり、正常では一寸見えて沈であるべきである。これを超える者を太過とし、足りない者を不及とする。脈象が下方へ深く尺部に入るのを覆といい、「内関外格」であり、これは陽気が陰に乗る脈象である。したがって「覆溢」は真臓脈(臓腑の真気が衰敗したときに露わになる危重な脈象)に属し、人に明らかな外的症状がなくても、すでに危篤の状態にある可能性があるのである。
問:脈に陰陽の法があるとは、どういう意味か。
答:呼気は心肺と対応し、吸気は肝腎と対応し、呼吸の間は脾と対応し、その脈は中部に位置する。浮は陽で、沈は陰であるから、陰陽と称するのである。
心肺の脈はともにやや浮であるが、どう区別するのか。心の脈は浮大にして散、肺の脈は浮短にして渋である。肝腎の脈はともにやや沈であるが、どう区別するのか。肝の脈は牢にして長く、腎の脈は按じると柔らかく、指を挙げると來たる時充実する。脾は中州に位置するので、脈象は中にある。
いわゆる一陰一陽、一陰二陽、一陰三陽、一陽一陰、一陽二陰、一陽三陰とは、寸口に六つの脈が同時に搏動するという意味ではなく、浮、沈、長、短、滑、渋の六種の脈象の組み合わせを指すのである。浮、滑、長は陽に属し、沈、短、渋は陰に属す。たとえば一陰一陽は脈が来たって沈にして滑なるもの。一陰二陽は沈滑にして長きもの。一陰三陽は浮滑にして長く、時に一たび沈するもの。一陽一陰は浮にして渋きもの。一陽二陰は長くして沈渋なるもの。一陽三陰は沈渋にして短く、時に一たび浮するもの。さらに各経の位置するところによって、病の順逆を判断するのである。
問:脈に軽重があるとは、どういう意味か。
答:初めに脈を按じること三粒の豆の重さのようであれば、皮毛と対応し、肺を候う。六粒の豆の重さであれば、血脈と対応し、心を候う。九粒の豆の重さであれば、肌肉と対応し、脾を候う。十二粒の豆の重さであれば、筋と平らになり、肝を候う。骨まで按じ、指を挙げる時、脈の來たるが疾速であれば、腎を候う。これが脈の軽重の層分けである。
問:脈に陰盛阳虚、陽盛陰虚があるとは、どういう意味か。
答:浮取すると脈が弱くして小さく、沈取すると脈が実にして大きいのを陰盛阳虚という。沈取すると脈が弱くして小さく、浮取すると脈が実にして大きいのを陽盛陰虚という。これは浮沈の両方面から陰陽虚実を判断する意味である。
問:経に、少陽の至るは、脈がたちまち大きくたちまち小さく、たちまち短くたちまち長し。陽明の至るは、浮大にして短し。太陽の至るは、洪大にして長し。少陰の至るは、緊大にして長し。太陰の至るは、緊細にして長し。厥陰の至るは、沈短にして緊なり、という。この六者は平脈か病脈か。
答:これらはすべて王脈(当令で旺盛なときの正常な脈象)である。
問:これらの旺気はどの月にあり、それぞれ何日旺ずるのか。
答:冬至の後、最初の甲子日から少陽が旺じ、二番目の甲子は陽明が旺じ、三番目の甲子は太陽が旺じ、四番目の甲子は少陰が旺じ、五番目の甲子は太陰が旺じ、六番目の甲子は厥陰が旺ずる。それぞれ六十日旺じ、六六三百六十日で、一年となる。これが三陽三陰の当令する日時の大要である。
問:寸口脈が平らかなのに死亡するとは、どういう意味か。
答:十二経脈はすべて生氣の原に繋がる。いわゆる生氣の原とは、十二経の根本であり、すなわち腎間動気(両腎の間に蔵される生命の原動力)である。これは五脏六腑の本であり、十二経脈の根であり、呼吸の門であり、三焦の原であり、またの名を「守邪之神」という。ゆえに気は人の根本であり、根が絶えれば茎葉は枯れる。寸口脈が平らかなのに死するのは、生氣がすでに内において独り絶えているからである。
問:どのようにして臓腑の病を辨别するのか。
答:数脈は腑を主り、遅脈は臓を主る。数は熱を主り、遅は寒を主る。諸陽は熱であり、諸陰は寒である。したがって臓腑の病を辨别することができるのである。
問:一脈が十種の情況に変わりうるとは、どういう意味か。
答:これは五邪の剛柔が相逢する意味である。心脈を例にとると、心脈が急甚なるは、肝邪が心に干すもの。心脈が微急なるは、胆邪が小腸に干すもの。心脈が大甚なるは、心邪が自ら心に干すもの。心脈が微大なるは、小腸邪が自ら小腸に干すもの。心脈が緩甚なるは、脾邪が心に干すもの。心脈が微緩なるは、胃邪が小腸に干すもの。心脈が渋甚なるは、肺邪が心に干すもの。心脈が微渋なるは、大腸邪が小腸に干すもの。心脈が沈甚なるは、腎邪が心に干すもの。心脈が微沈なるは、膀胱邪が小腸に干すもの。五脏にはそれぞれ剛柔の邪気があるので、一脈が十種の情況に変わるのである。
問:経に、脈が五十動に満たずして一度歇止するのは、一臓に無気であるという。これはどの臓か。
答:人は吸気するとき気は陰に随って入り、呼気するとき気は陽によって出る。今、吸気が腎に到達できず、肝に到って返るので、一臓に無気と知るのであり、腎気が先に尽きるのである。
問:経に、五脏脈すでに内に絶えたならば、針を用いる者は反ってその外を実す。五脏脈すでに外に絶えたならば、針を用いる者は反ってその内を実す、という。内外の絶えることをどう区別するのか。
答:五脏脈がすでに内に絶えたとは、腎肝の気がすでに内に絶えたのであり、医者がかえってその心肺を補うもの。五脏脈がすでに外に絶えたとは、心肺の気がすでに外に絶えたのであり、医者がかえってその腎肝を補うもの。陽絶してかえって陰を補い、陰絶してかえって陽を補うことを、「実実虚虚」、すなわち不足を損じ有益を増す、とよぶのである。これによって死に至らしめる者は、医者の誤治によるものである。
問:経に、面色を見て相応の脈を得ず、かえって相勝の脈を得れば死し、相生の脈を得れば病は自ずから癒ゆ、という。色と脈は互いに参合すべきであるが、具体的にはどうか。
答:五脏には五色があり、すべて顔面に現れる。また寸口、尺内と対応すべきである。たとえば面色が青ければ、脈は弦にして急なるべきである。面色が赤ければ、脈は浮大にして散なるべきである。面色が黄ければ、脈は中緩にして大なるべきである。面色が白ければ、脈は浮渋にして短なるべきである。面色が黒ければ、脈は沈濡にして滑なるべきである。これが五色と脈との対応である。
脈が数なれば、尺部の皮膚もまた数なり。脈が急なれば、尺膚もまた急なり。脈が緩なれば、尺膚もまた緩なり。脈が渋なれば、尺膚もまた渋なり。脈が滑なれば、尺膚もまた滑なり。五脏にはそれぞれ声、色、臭、味があり、寸口、尺内と対応すべきであり、対応しなければ病である。たとえば面色が青く、脈が浮渋にして短、あるいは大にして緩なるは、相勝である。脈が浮大にして散、あるいは小さくして滑なるは、相生である。
経にいう、知一は下工、知二は中工、知三は上工と。上工は十全九、中工は十全七、下工は十全六。これがその道理を言ったものである。
第1—13難の核心は、寸口脈診を中心とした診断の枠組みを確立することにある。
これらの内容は共通して一つの思想を示している。すなわち、脈診とは孤立して脈拍を診ることではなく、脈象を通じて人体の気—血—臓腑—陰陽の全体的状態を観察することなのである。
本内容は中医の古典古籍に基づくものであり、伝統文化の学習と研究のためのみに供し、いかなる医療診断、投薬、または治療のアドバイスを構成するものではない。もし不調があれば速やかに医療機関を受診すること。