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全 10 章中 5 章
难经
全体意訳
問:営気(脈中をめぐり、栄養・滋潤をつかさどる気)は体内で運行するにあたり、常に衛気(脈外をめぐり、温煦・防衛をつかさどる気)と相伴って行くものでしょうか? 答:医経にいう、人体の気は水穀に由来する🌾。飲食が胃に入ると、精微に化生されて五臓六腑に送られ、五臓六腑はすべて水穀の気の滋養を受ける。そのうち比較的しなやかなものを営気とし、比較的活発で慓悍(ひょうかん・すばやく激しい)なものを衛気とする。ここでいう「濁」は汚濁という意味ではなく、「清」に対してやや活発で衛外する性質をいう。営気は脈内をめぐり、衛気は脈外をめぐって、めぐりめぐって止まることがなく、一昼夜に五十周して再び会合する。陰経と陽経は相互に通じ合い、まるで円環のように端緒も終わりもない。ゆえに営気と衛気は相互に伴い合うものであると知る。
問:三焦(上・中・下の三部分にわたる気化・水道のシステム)は何を受け、どのように生成されるのか?どこから始まり、どこで終わるのか?その主治の部位は常にどこにあるのか? 答:三焦は水穀が運行する道であり、人身の気が始まり終わるところでもある。上焦は心の下にあり、下方に横隔膜を貫き、胃の上口に至る。受納をつかさどり、排出はつかさどらない。その治所は膻中(両乳の間のくぼみ、玉堂穴の下一寸六分)にある。中焦は胃の中脘(ちゅうかん)にあり、上にも下にも偏らず、水穀の腐熟(ふじゅく・消化)をつかさどる。その治所は臍の傍らにある。下焦は膀胱の上口にあり、清濁の分別をつかさどり、排出をつかさどって受納はつかさどらず、伝導をもって用をなす。その治所は臍の下一寸にある。ゆえに「三焦」と称し、その府は気街(そけい・鼠径部の気冲穴のあたり)にある。
問:五脏の地位は同等であるのに、なぜ心・肺だけが横隔膜より上に位置するのか? 答:心は血をつかさどり、肺は気をつかさどる。血は営であり、気は衛であり、相互に伴い合って上下し、営衛と称する。それらは経絡に通じ、体表を循環めぐる。ゆえに心・肺をして独り膈上に位置せしめるのである。
問:肝は色青く、五行では木に属し、肺は色白く、五行では金に属する。理からいえば、木は水中で浮くはずであるが、肝は水に得てかえって沈むといい、金は水中で沈むはずであるが、肺は水に得てかえって浮くという。これはどういう意味か? 答:肝は純粋な木ではなく、陰木の「乙」であり、五音では角(かく)に属し、陽金の「庚」と配されて「柔」となる。大きくとらえれば陰陽の相配であり、細かくとらえれば夫婦の合うがごとくである。肝はその微陽を放ち、微陰の気を吸納する。その性は金に趨(おもむ)き、また陰柔の道を行うことに偏る。ゆえに肝は水に得て沈む。肺もまた純粋な金ではなく、陰金の「辛」であり、五音では商(しょう)に属し、陽火の「丙」と配されて「柔」となる。肺はその微陰を放ち、火と相合し、その性は火に趨き、また陽剛の道を行うことに偏る。ゆえに肺は水に得て浮く。では、肺が成熟した後にはまた沈み、肝が成熟した後にはまた浮くのはなぜか?これによって知る、辛金は遂に庚金に帰し、乙木は遂に甲木に帰することを。すなわち陰柔は成熟した後に陽剛の本性に帰するのである。
問:五脏にはそれぞれ対応する声音・色・臭気・味・液体があるが、説明していただけるか? 答:《十変》にいう、肝の色は青く、その臭気は膻(なまぐさ)であり、その味は酸く、その声は呼であり、その液は泣(なみだ)である。心の色は赤く、その臭は焦(こげくさい)であり、その味は苦く、その声は言であり、その液は汗である。脾の色は黄であり、その臭は香であり、その味は甘く、その声は歌であり、その液は涎(よだれ)である。肺の色は白く、その臭は腥(なまぐさい)であり、その味は辛く、その声は哭(なく)であり、その液は涕(はなみず)である。腎の色は黒く、その臭は腐(くさ)であり、その味は鹹(しおからい)であり、その声は呻(うめく)であり、その液は唾(つば)である。これが五脏の声・色・臭・味・液である。 問:五脏には七神があるが、それぞれどこに蔵されるのか? 答:五脏は人の神気が居蔵するところである。ゆえに肝は魂を蔵し、肺は魄を蔵し、心は神を蔵し、脾は意と智を蔵し、腎は精と志を蔵する。
問:五脏とそれぞれ表裏をなす腑の位置はみな近いのに、なぜ心と小腸、肺と大腸は距離が遠いのか? 答:医経にいう、心は営をつかさどり、肺は衛をつかさどり、陽気を通行させる。ゆえに位置は上にある。大腸・小腸は陰気を伝導して下(した)に行かせる。ゆえに位置は下にある。したがってそれらは遠く隔たっているのである。 また問う:六腑はみな陽に属し、清浄な場所であるべきだ。ところがいま大腸・小腸・胃と膀胱はみな不浄の物を受け納めるのはなぜか? 答:「六腑はすべて清浄である」というのは正しくない。医経にいう、小腸は受盛之腑であり、大腸は伝瀉行道之腑であり、胆は清浄之腑であり、胃は水穀之腑であり、膀胱は津液之腑である。一腑に二つの名称はない。ゆえに「諸腑はみな清浄である」という説は成立しないと知る。小腸は心の腑であり、大腸は肺の腑であり、胆は肝の腑であり、胃は脾の腑であり、膀胱は腎の腑である。五色に従って称すれば、小腸を赤腸といい、大腸を白腸といい、胆を青腸といい、胃を黄腸といい、膀胱を黒腸という。これらはすべて下焦の治める所に属する。
問:五脏はそれぞれ一つずつであるのに、なぜ腎だけが二つあるのか? 答:腎は二つあるが、すべてが腎というわけではない。左にあるのは腎であり、右にあるのは命門(生命の門・元気の係るところ)である。命門は諸神精の居所であり、原気(人体の根本の気)の係るところである。男子はここに精を蔵し、女子はここに胞宮を维系する。ゆえに真の腎は一つだけである。
問:五脏の気はどこから発し、どこに通じるのか? 答:五脏の精気は常に上部の七窍に反映する。肺の気は鼻に通じ、鼻の気が和すれば香臭を弁別できる。肝の気は目に通じ、目(く)の気が和すれば黑白を弁別できる。脾の気は口に通じ、口の気が和すれば五穀の味を弁別できる。心の気は舌に通じ、舌の気が和すれば五味を弁別できる。腎の気は耳に通じ、耳の気が和すれば五音を弁別できる。 五脏が和すれば、七窍は通じない。六腑が和しなければ、気血は留結して癰(よう・できもの)を成す。邪が六腑にあれば陽脈は和せず、気が留滞すれば陽脈は盛んになる。邪が五脏にあれば陰脈は和せず、血が留滞すれば陰脈は盛んになる。陰気が盛んで、陽気がともに運行できなければ、これを「格」という。陽気が盛んで、陰気がともに運行できなければ、これを「関」という。陰陽ともに盛んで、相互に運行できないものを「関格」という。関格は陰陽がひどく隔絶して通じない危重な状態であり、古人は人が天寿を全うできずに死ぬと考えた。 問:医経に、気はただ五脏のみを行き、六腑には運行しないというのはなぜか? 答:気の運行は水の流れのようであり、一瞬たりとも止まらない。ゆえに陰脈は五脏を運行し、陽脈は六腑を運行し、円環のように起点がなく、循環してやむことがなく、溢れ出ることはない。人の気は内では五脏六腑を温養し、外では腠理(皮膚筋腠の紋理)を潤す。
問:臓は五つだけなのに、腑はなぜ六つあるのか? 答:腑が六つある理由は、三焦を含むからである。三焦は原気の別使であり、全身の諸気をつかさどり、名はあって形はない。その経脈は手少陽経に属する。これは腑の外の腑であり、ゆえに腑は六つあるという。
本内容は中医の古典古籍に基づくもので、伝統文化の学習と研究のみを目的としており、いかなる医療診断・投薬・治療の助言を構成するものではありません。不調がある場合は速やかに医療機関を受診してください。 — 卜瓜