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全 15 章中 9 章
星学大成
本章は納音長生十二位が命局において示す吉凶の意象を専門的に論じ、歌訣の形式で長生・沐浴・冠帯・臨官・帝旺・衰・病・死・墓庫・胞絶・胎・養などの宮位が寿命・六親・功名・财富・子息などの方面に及ぼす影響をそれぞれ説明する。核心となる方法は、納音五行を主体とし、命局・時日・男女宮などを十二長生宮に落入させて順行で数を推し、さらに吉神・禄貴・悪煞を組み合わせて総合的に判断するものである。
長生は寿命の長久と栄顕を主管する。もし時日が再び長生に臨めば、性情が霊秀で聡明であることを主とする。さらに吉神が相会すれば、少年のうちに科举に及第し、朝廷に入って官職に就くことができる。長生を得て相逢すれば、生まれながらに祖業が隆盛で、父母・妻児が克害を受けることが少なく、安らかに福を享受し、終始福沢を保つことができる。
沐浴は凶神として軽々しく犯すことを戒めるべきであり、多く成れば多く敗れることを主とし、その中の反復は知る者が少ない。男がこれに値すれば孤独になりやすく、女命がこれに逢えば別離しやすい。しかし沐浴も禄位と相逢うことを喜び、もしさらに引従の貴気がその中にあれば、書を読めば必ず科甲に登ることができ、諸神を一概に凶と説くことはできない。桃花沐浴は最も聞くに堪えず、伯叔姑姨が同じ婚姻をすることの象意さえある。もし日・月・時・胎がこれを犯せば、礼を無視して人倫を乱すことが定まっている。女命がまた沐浴に逢えば、二三家を破壊してもなお足りず、父母は故郷を離れ、寿命は長くなく、頭胎の男女は泣くことを防がねばならない。
命が冠帯に逢うことは知る者が少なく、早年は貧寒を主とし、中年以後にようやく宜しきを得る。もしさらに貴人が本位に加臨すれば、功名の成就に何の疑いがあろうか。人命がまた冠帯に逢えば、兄弟妻児に害がなく、祖業を継承し家伝を襲うことができるのは、ただ胎中に華蓋の照応があるからである。
臨官・帝旺は最も奇特であり、禄貴と同宮することを仔細に推し究めねばならない。たとえ状元に登って上第を得なくとも、必ず黄甲を得て麻衣を脱ぐことができる。すなわち平民の布衣を脱して、官服に換えるのである。
納音の衰・病・死が重なって逢えば、成敗の中に吉凶が顕れる。もし吉神を得て救助が来れば、災いを変じて福となし、亨通し始めることができる。
墓庫は元来葬神であるが、もし正印として用いられるならば仔細に推論すべきである。相生して相順(したが)い、相克しなければ、富貴の中にもまた次第の区別がある。人命がまた墓庫に逢えば、穀物を積み財を聚めて数え難いことを主とするが、人は吝嗇で貪婪となり、一文の銭も惜しんで使わず、老いるに及んで人に守財奴と呼ばれる。
絶の中に旺に逢うことは知る者が少なく、当生の納音の命に還って推すべきである。本に反り源に還ることを応に分別して詳しくすべきで、忽然と困頓に遇っても猜疑してはならない。胞神の一位は絶と名付けられ、妻奴を克害して家道は衰劣し、朝夕に奔波して忙しくするばかりでなく、その貪婪にして飽くことを知らぬさまは、羊が貪り食い狼が貪り食うのと異なることがない。
胎養は仔細に審らかに詳しくすべきで、半凶半吉の両者が相半ばする。貴神が相扶すれば応に福となり、悪煞が重なって見えれば禍殃を見る。人は胎養を小長生と言うことがあり、人命がただこれに逢えば自ずから霊秀が積まれる。もし文を修めれば心意のままにかなうはずであり、そうでなければ経営に運籌しても光顕にして亨通することができる。
長生十二宮を男女宮に配して子息の数を定める:
[訳注:長生位の「中旬半」について、一旬は十日、半は五であり、五数の上下を指す。帝旺の「五子」と数量で呼応するが、長生位は多くが潜勢と起始を主とし、絶対的な数値ではない。]
納音の我を克する者を取って子孫星とする。例えば金命の人は火を子孫とし、火の長生は寅にあり、寅の上から長生を起こし、順に数えて男女宮が何方にあるかを見て、歌訣に依って吉凶を断ずる。仮に火命の人で、男女宮が午にあれば、寅から長生を起こし、順に数えて午に至れば帝旺となり、旺中五子自ら行を成す、則ち五子の位を主とするとする。これに依って推せば、万に一つの誤りもない。また例えば木命の人で、男女宮が申にあれば、納音の我を克する者を取って子孫とし、金は木を克し、金の長生は巳にあり、巳の上から長生を起こし、順に数えて申に至れば臨官となり、冠帯臨官は三子の位、則ち三子の位を主とするとする。その他はすべてこれに倣う。
また一説に、我が生ずる者を取って児孫とする。例えば金命の人は、金は水を生じ、水を用いて児孫とする。水の長生は申にあり、申の上から長生を起こし、男女宮が何方にあるかを見る。もし酉の上にあれば、申から長生を起こして順に数えて酉に至れば沐浴となり、沐浴は一双の男女を主とし、則ち一双の儿女を主とするとする。以上、一つは納音の我を克する者を取って子孫とし、一つは我が生ずる者を取って子孫とするが、いずれも男女宮に数え至って判断するものであり、いずれも理がある。
十二長生は神秘的な定数ではなく、現代においては人生の異なる段階と資源状態のモデルとして転化させることができる:
古訣の中の「五子」「三子」「無子」などの具体的な数字は、農業社会における生育数と家庭労働力を背景とした経験の総括であり、現代にそのまま適用することはできない。現代においては、これを子息の縁・家庭の養育力・親子関係の資源についての示唆として読むべきであり、子女数の予言としてではない。現代社会では生育の自主性・避妊技術・家庭構造の多様化が進み、このような断語は直接的な予測意義を失っている。
十二長生の循環は、「生長—壮大—衰亡—再生」という宇宙のリズムを完全に示している。長生の後には必ず沐浴の動蕩があり、帝旺の後には必ず衰病の消耗があり、墓絶の後にはまた胎養の再生がある。この循環観は『易経』の「窮まれば則ち変じ、変ずれば則ち通じ、通ずれば則ち久し」という変易の思想と通じ、永遠の頂点もなければ、絶対的な窮地もないことを強調する。
人生の貴賤・子息の多寡・貧富寿夭を自然の周期に組み入れることは、中国古典運命学における「天人同構」の全体的思考様式を示している。しかしその歴史的限界は、社会制度や経済条件によって生じる差異を、個人の生まれた時間に過度に帰属させたことにある。現代においてこの思想を吸収するにあたっては、「リズムを察知し宿命に従わない」ことを重視すべきである。低谷にあっては「本に反り源に還る」「絶中逢旺」ができ、絶頂にあっては「帝旺」の背後にある衰変の可能性に警戒すべきである。真の知恵は「何人子女がいるか」を算出することにあるのではなく、それぞれのライフサイクルが生成と転化の潜能を含んでいることを理解することにある。