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脉经
総覧:本巻は五脏を綱とし、肝胆、心小腸、脾胃、肺大腸、腎膀胱の五部に分けて列挙する。核心的な論理は「臓—腑—経脈—表裏—脈形—四時の旺衰—平病死脈—情志による所傷—気絶死候」である。その中で「胃気」とは脈中における柔和な生理的生気を指し、平・病・死を判断する鍵となる。
肝は五行において木に属し、胆と合わさって腑となる。肝経は足厥陰であり、足少陽胆経と表裏の関係をなす。肝の応時脈象は弦脈(端直にして長く、琴の弦を按うかのごとき)である。肝気は冬季に相旺となり、春季に最も旺んで、夏季に転廃し、季夏に囚われ、秋季には死ぬ。日時においては、甲乙日、平旦と日出の時が肝木に応じ、戊己日と食時、日昳の時は肝木が困窮する時であり、庚辛日と晡時、日入の時は肝木が死ぬ時である。肝は魂を蔵し、色を主り、筋を養い、外候は目に在り、声は呼び、色は青く、臭いは臊(生臭さ)、液は涙、味は酸、宜とするは苦味、悪むは辛味である。肝俞は背部第九椎に在り、募穴は期門。胆俞は第十椎に在り、募穴は日月。
冬至後の最初の甲子日、少陽の気は夜半から生発し始め、肝気は次第に旺んとなる。肝は東方の木に応じ、万物の初生を主る。その気の来たるや、柔軟に寬舒にして虚なるべきゆえ、脈象は弦となる。脈が軟らかなれば発汗すべからず、脈が弱ければ攻下すべからず。寬舒は開達・通暢を意味するゆえ、「寬にして虚」と称す。春は胃気を根本と為し、胃気を傷つけてはならない。
黄帝が春脈は弦のごとしと問う。岐伯が曰く:春脈は肝に応じ、東方の木に応じ、万物が生長し始める脈象である。故に来勢は濡弱にして軽虚、滑らかで、端直にして長く、弦と名付く。太過なれば脈気は実して強く、病は表に在り。不及なれば脈気は実ならずして微かに、病は裏に在り。太過は人をして怒り易く、眩暈昏冒せしめ、甚だしければ頭部の疾患を引き起こす。不及は人をして胸脇痛が背部に引くことを生じ、下は両脇が脹満する。
肝脈の平脈は濡弱軽緩にして、長竿の末梢を挙ぐるがごとく、病脈は盈実にして滑らかに、長竿に循うがごとく、死脈は急にして剛勁、新たに張った弓の弦のごとし。真肝脈(胃気なき肝の本脈)至れば、内外ともに急に、刀刃に循うがごとし。面色は青白く潤いなく、毛髮は断折し、予後は凶なり。春に胃気が少々弦を兼ぬるは平、弦多胃少は肝病、ただ弦にして胃なきは死。肝は血を蔵し、血は魂を舎す。悲哀過度は則ち魂を傷り、魂傷らば則ち狂妄にして安からず、陰縮し筋攣し、両脇挙がらず、毛悴色夭し、多くは秋季に危重となる。
春季肝旺の時、平脈は弦細にして長し。もし反って浮渋にして短きを見れば、これは肺金が肝木を克す、すなわち「賊邪」と為し、古人は大逆にして治し難しと考える。もし洪大にして散ずるを見れば、これは心火が肝木を助く、すなわち「実邪」に属し、病あれども自ら愈ゆる可し。もし沈濡にして滑らかを見れば、これは腎水が肝木を養う、すなわち「虚邪」に属し、病あれども治し易し。もし大にして緩を見れば、これは脾土が肝木を凌ぐ、すなわち「微邪」に属し、病あれども愈え易し。
肝脈の搏動頻度については、古人は一息に再至を平と為し、三至を「離経」と為して病を主り、四至を脱精と為し、五至を死候と為し、六至を命尽と為す。肝脈の急甚、微急、緩甚、微緩などの変化は、それぞれ悪言、脇下の肥気、嘔吐、水瘕痹、内癰、肝痹、多飲、消瘅、頽疝、遺溺、痰飲、筋脈の抽掣などの病候に関連づけられる。足厥陰肝経の気絶ゆる時は、筋縮し、陰嚢と舌を牽引す。唇青ざめ、舌巻き、陰嚢縮むは、筋が先に死する象なり。肝死臓脈は浮取すれば弱く、按ずるに绳索の来たらざるがごとく、または曲がりて蛇行するがごとく、主として死す。
肝は春木に応じ、弦脈は「生発の象」であり、単純な「硬さ」ではない。文中では繰り返し「春は胃気を本と為す」ことを強調する。すなわち脈は柔和な胃気を具えねばならず、弦にして柔和を平と為し、弦にして剛勁なるを病と為す。肝は魂を蔵し、筋を主り、目に開竅す。古人が情志・運動・視覚を肝系統と関連づけたことを示す。
弦脈は現代脈学において、血管張力が高め、情緒緊張、疼痛、高血圧傾向などの状態に多く見られるが、直接に同一視はできない。四時の「王相廃囚死」と五行の生剋は古代のシステムモデルであり、周期性の観察を体现するもので、生死を予測する絶対的な根拠とすべきではない。真臓脈の「胃気なし」は、脈象が生理的な弾力とリズムを失った状態と理解でき、全体状態が極めて悪いことを反映する。
春は情緒を舒展させ、適度に活動し、抑圧と激怒を避けるべし。起居は早寝早起きを心がけ、飲食は節度を持ち、脾胃を養護して「胃気を犯さざる」ようにすべし。これらは一般的な生活調摂であり、特定の疾病を対象とするものではない。
心は火に属し、小腸と合わさる。心経は手少陰であり、手太陽小腸経と表裏の関係をなす。心の応時脈象は洪脈(来たるに盛んで去るに衰え、水の流れのごとく洪大)である。心気は春季に相旺となり、夏季に最も旺んで、季夏に転廃し、秋季に囚われ、冬季には死ぬ。丙丁日、禺中と日中の時は心火に応じ、庚辛日、晡時と日入の時は困窮し、壬癸日、人定と夜半の時は死時である。心は神を蔵し、臭を主り、血を養い、外候は舌に在り、声は言、色は赤く、臭いは焦、液は汗、味は苦く、宜とするは甘、悪むは鹹。心俞は第五椎に在り、募は巨闕。小腸俞は第十八椎に在り、募は関元。
心は南方の火に応じ、万物の盛長を主る。その脈は洪大にして長し:洪は衛気の実を表し、大は栄血の明盛を表す。洪大相合すれば、発汗・通津液すべし。夏季は飲水多く、汗は頭面より出で、以て肌肤を潤す。もしこの時体内の津液がすでに不足しているのに、医者が反って下法を用いれば、「重虚」を引き起こす。脈浮にして表あり裏なきは、陰陽の失序であり、身を傷るのみならず、間接的に肝を傷る可能性もある。
夏脈は鉤のごとし:来たるに盛んで去るに衰うるを鉤と為す。太過なれば来たりて盛ん、去りてまた盛ん、身熱・膚痛・浸淫瘡を主る。不及なれば来たるに盛んならずして去るに反って盛ん、心煩・上部の咳唾・下部の気泄を主る。
心脈の平脈は累々として連珠のごとく、琅玕に循うがごとく、病脈は喘喘として連属し、その中に微かに曲がり、死脈は前に曲がり後に居り、帯鉤を操るがごとし。真心脈至れば、堅にして搏ち、薏苡子に循うがごとく、面色は赤黒く潤いなく、毛折れて危候となる。夏に胃気が微かに鉤を兼ぬるを平と為し、鉤多く胃少なきを心病と為し、ただ鉤のみにして胃なきを死と為す。心は脈を蔵し、脈は神を舎す。驚恐思慮過度は則ち神を傷り、神傷らば則ち恐懼して自ら失い、肌肉消脱し、毛悴色夭し、多くは冬季に危重となる。
夏季心火旺の時、平脈は洪大にして散ず。もし反って沈濡にして滑らかを見れば、これは腎水が心火を克す、賊邪と為す。大にして緩は脾土が心火を助く、実邪と為す。弦細にして長は肝木が心火を生ず、虚邪と為す。浮渋にして短は肺金が心火を凌ぐ、微邪と為す。心脈の搏動:一息に再至を平と為し、三至を病と為し、四至を脱精と為し、五至死、六至命尽く。心脈の急甚は筋脈の抽掣、微急は心痛が背に引き、食下らず。緩甚は狂笑、微緩は伏梁、時に唾血す。大甚は喉中に梗阻し、微大は心痹が背に引き、善く涙出づ。小甚は嘔逆し、微小は消瘅。滑甚は口渇し、微滑は心疝が臍に引き、少腹が鳴る。渋甚は失音し、微渋は出血・四肢厥冷・耳鳴・頭部疾患。手少陰の気絶ゆれば血脉通ぜず、血の流れざる故に面色は漆柴のごとく黒し、血が先に死する象なり。心死臓脈は浮取すれば実に、豆麻の手を撃つがごとく、按ずるにさらに躁疾にして、主として死す。
心は夏火に応じ、洪脈は「盛長の象」であるが、洪大は必ず胃気を兼ねねばならず、兼ねざれば「ただ鉤のみにして胃なし」となる。心は血脉を主り、神を蔵し、情志の驚恐思慮は心神を傷る。これ「形神合一」を体现す。汗は心の液であり、津液と衛気・栄血の関係が重点的に論じられる。
洪脈は心拍出量の増加、末梢血管拡張、発熱、代謝亢進状態などに対応しうるが、脈象のみで診断すべきではない。情志ストレスと心血管機能の関連は確かに存在する。古人の汗・津液・発汗と下法に関する議論は古代の治療禁忌であり、理法の研読に供するのみである。
夏は静心養神を心がけ、激怒・驚恐・過度の思慮を避けるべし。発汗が多い時は適切に水を補うべきだが、冷たいものを貪り陽を傷るべからず。これらは一般的な養生原則である。
脾は土に属し、胃と合わさる。脾経は足太陰であり、足陽明胃経と表裏の関係をなす。脾の応時脈象は緩脈(和柔舒遅)である。脾气は夏季に相旺となり、季夏に最も旺んで、秋季に転廃し、冬季に囚われ、春季には死ぬ。戊己日、食時と日昳の時は脾土に応じ、壬癸日、人定と夜半の時は困窮し、甲乙日、平旦と日出の時は死時である。脾は意を蔵し、味を主り、肌肉を養い、外候は口に在り、声は歌、色は黄、臭いは香、液は涎、味は甘く、宜とするは辛、悪むは酸。脾俞は第十一椎に在り、募は章門。胃俞は第十二椎に在り、募は太倉。
脾土は敦厚で、万物を長養する能く、故に「福を得る者は広し」と称す。脾脈は緩にして遅に応じ、寸尺の部はやや差別がある。土寒なれば則ち温め、土熱なれば則ち涼す。土は金を生じ、金は火を畏る。冬季は金が水の中に蔵る。これ五行生化のモデルである。もし脾土が衰弱すれば、水湿が氾濫し、面目浮腫・四肢沉重が現れうる。文中では「愚かな医者が水を見て直ちに下す」ことを批判する。脾胃をますます虚しくし、水気が上犯し、肺気が浮喘する。もし正しく調治し、樞孔の穴を転じ、水道を通利し、津液をして下流せしめ、陰陽を調和せしむれば、喘息は自ずから安まる。
脾脈は単独で一時を主らず、「孤臓にして以て四旁に灌ぐ」。その病脈:来たること水の流るるがごときは太過、四肢の沉重にして挙がらざるを主る。鳥の喙のごときは不及、九竅の壅塞して通ぜざるを主る。脾平脈は和柔相離し、鶏足の地を践むがごとく、病脈は実にして盈数、鶏の足を挙ぐるがごとく、死脈は堅鋭にして鳥喙・鳥距・屋漏・水溜のごとし。真脾脈至れば、弱くして乍疏乍散、色は青黄にして潤いなく、毛折れて危候となる。長夏に胃気が微かに濡弱なるを平と為し、弱多く胃少なきを脾病と為し、ただ代のみにして胃なきを死と為す。脾は栄を蔵し、栄は意を舎す。愁憂解けざるは則ち意を傷り、意傷らば則ち悶乱し、四肢挙がらず、毛悴色夭し、多くは春季に危重となる。
季夏脾旺の時、平脈は大にして和緩。もし反って弦細にして長を見れば、これは肝木が脾土を克す、賊邪と為す。浮渋にして短は肺金が脾土を生ず、実邪と為す。洪大にして散は心火が脾土を生ず、虚邪と為す。沈濡にして滑は腎水が脾土を凌ぐ、微邪と為す。脾脈の搏動:一息に再至を平と為し、三至を病と為し、四至を脱精と為し、五至死、六至命尽く。脾脈の急甚は筋脈の抽掣、微急は脾中の脹満・食入即吐・大便に沫あり。緩甚は痿厥、微緩は風痿・四肢用いられずして神志はなお清し。大甚は跌仆、微大は痞気・腸胃外の膿血。小甚は寒熱、微小は消瘅。滑甚は頽癃、微滑は虫積・腸鳴発熱。渋甚は腸頽、微渋は内潰・多く下血膿す。足太陰の気絶ゆれば口唇が養われず、人中脹み、唇反る。肉が先に死する象なり。脾死臓脈は浮取すれば大緩、按ずるに覆杯のごとく、動揺して安からず、主として死す。
脾は土に属し、「孤臓」にして四旁に灌溉す。脾脈は「和柔」を貴び、緩にして序あり。文中で最も強調されるのは「胃気」と「妄りに下すべからず」という点である。脾土いったん虚すれば、水湿・木克・金浮などの連鎖反応がすべて随いて来る。情志における「愁憂、意を傷る」は思慮過度による脾傷を体现する。
緩脈は消化機能・代謝リズム・自律神経状態を反映しうる。文中の「水湿氾濫」「面目浮腫」は浮腫・消化吸収不良と一定の現象的な対応があるが、特定の疾病診断ではない。古人が脾胃の気を保護することを強調するのは、現代が栄養状態と腸管機能を重視することと一致する点がある。
飲食は節度あり、憂思過度を避く。長夏に湿気が重ければ健脾祛湿に注意すべきだが、自ら薬を用いたり攻下したりしてはならない。規則正しい食事、よく噛んで食べること、情志を舒暢に保つことが一般的な調養原則である。
肺は金に属し、大腸と合わさる。肺経は手太陰であり、手陽明大腸経と表裏の関係をなす。肺の応時脈象は浮脈(軽虚にして上に在り、毛の水に浮かぶがごとし)である。肺気は季夏に相旺となり、秋季に最も旺んで、冬季に転廃し、春季に囚われ、夏季には死ぬ。庚辛日、晡時と日入の時は肺金に応じ、甲乙日、平旦と日出の時は困窮し、丙丁日、禺中と日中の時は死時である。肺は魄を蔵し、声を主り、皮毛を養い、外候は鼻に在り、声は哭、色は白く、臭いは腥、液は涕、味は辛く、宜とするは鹹、悪むは苦。肺俞は第三椎に在り、募は中府。大腸俞は第十六椎に在り、募は天枢。
肺は西方の金に応じ、万物の收成を主り、葉落ちて枝は存す。肺脈は微浮毛にして、衛気は避遅、栄気は偏数なり。故に「毛脈」と称す。もし陰陽の昇降が失常すれば、外邪に犯され易し。陽に中れば邪は收卷し、悪寒す。陰に中れば脈緊になり、戦慄す。寒慄相搏てば疟と成る可し。疟の発する時は邪に感ずる時と相応ず。脈に遅数あり、臓に遠近あり、栄衛の周行に度あり。秋は陽気下り、陰気上り、肺脈浮にして軽虚なる故、平と為す。
秋脈は浮のごとし:太過なれば脈毛にして中央堅く两旁虚、気逆・背痛の愠愠を主る。不及なれば脈毛にして微、喘促・少気・咳嗽・上部の咯血・下部に病音を聞くを主る。肺平脈は厭厭聂聂として、落ちし楡莢のごとく、病脈は上らず下らず、鶏羽に循うがごとく、死脈は物の水に浮かぶがごとく、風の毛を吹くがごとし。真肺脈至れば、大にして虚、羽毛の人の皮膚に觸るるがごとく、色は赤白にして潤いなく、毛折れて危候となる。秋に胃気が微かに毛なるを平と為し、毛多く胃少なきを肺病と為し、ただ毛のみにして胃なきを死と為す。肺は気を蔵し、気は魄を舎す。喜楽過度は則ち魄を傷り、魄傷らば則ち狂し、人を認めず、皮膚焦枯し、多くは夏季に危重となる。
秋季肺旺の時、平脈は浮渋にして短。もし反って洪大にして散ずを見れば、これは心火が肺金を克す、賊邪と為す。沈濡にして滑は腎水が肺金を助く、実邪と為す。大にして緩は脾土が肺金を生ず、虚邪と為す。弦細にして長は肝木が肺金を凌ぐ、微邪と為す。肺脈の搏動:一息に再至を平と為し、三至を病と為し、四至を脱精と為し、五至死、六至命尽く。肺脈の急甚は癲疾、微急は肺寒熱・怠惰・咳唾血・腰背胸に引き、鼻息肉にして通ぜず。緩甚は多汗、微緩は痿痹偏風・頭より下汗出止まず。大甚は脛腫、微大は肺痹。小甚は飧泄、微小は消瘅。滑甚は息贲上気、微滑は上下の出血。渋甚は嘔血、微渋は鼠瘻・頸腋間の病・上に勝えずして酸を喜ぶ。手太陰の気絶ゆれば皮毛焦枯し、津液去り、皮節傷れ、爪枯れ毛折る。気が先に死する象なり。肺死臓脈は浮取すれば虚、按ずるに葱叶のごとく弱く、下に根なし。主として死す。
肺は秋金に応じ、浮脈は「收成の象」であるが、必ず軽虚柔和ならねばらない。肺は気を主り、魄を蔵し、外に皮毛と合し、涕は肺の液である。文中の「毛脈」における浮取の軽虚は、秋令における陽気の漸收を体现する。肺脈は最も浮にして根なく、風の毛を吹くがごときを忌む。すなわち胃気なきである。
浮脈は表証や外周血管の状態を反映しうる。「如風吹毛」のような無胃気の脈は、換気不全や極度の消耗状態における脈圧低下・血管緊張低下と現象的に対応しうるが、やはり特定疾患の診断指標とはしえない。肺と大腸の表裏関係は、現在の腸肺相関(gut-lung axis)の研究と興味深い呼応を示す。
秋は「収」の季節であり、呼吸を深く整え、悲しみをコントロールし、燥邪を防ぐ。肌の保湿と鼻・気道の保護に留意しつつ、過度な発散を避け、肺気を養う。これらは一般的な季節養生である。
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腎は水に属し、膀胱と合わさる。腎経は足少陰であり、足太陽膀胱経と表裏の関係をなす。腎の応時脈象は沈脈(重手で按じて得られ、石の水に沈むがごとし)である。腎気は秋季に相旺となり、冬季に最も旺んで、春季に転廃し、夏季に囚われ、季夏には死ぬ。壬癸日、人定と夜半の時は腎水に応じ、丙丁日、禺中と日中の時は困窮し、戊己日、食時と日昳の時は死時である。腎は精を蔵し、志を主り、骨を養い、外候は耳に在り、声は呻、色は黒く、臭いは腐、液は唾、味は鹹く、宜とするは酸、悪むは甘。腎俞は第十四椎に在り、募は京門。膀胱俞は第十九椎に在り、募は中極。
腎は北方の水に応じ、万物の蔵蟄を主る。冬脈は沈にして石のごとく、その気は沈くして搏つ。腎脈の平脈は喘喘として、石の水に沈むがごときを平と為す。病脈は搏ちて転転として、葛を引きて索を綿となすがごとし。死脈は搏ちて堅固にして、彈石のごとし。真腎脈至れば、搏ちて絶えず、ただ石の弾ずるがごとく、色は黒黄にして潤いなく、毛折れて危候となる。冬に胃気が微かに沈なるを平と為し、沈多く胃少なきを腎病と為し、ただ沈のみにして胃なきを死と為す。腎は精を蔵し、精は志を舎す。精気竭くる時は、志は傷り、喜忘し、前後、心を暗まするとき多し。冬に腎旺の時、平脈は沈濡にして滑。もし反って大にして緩を見れば、これは脾土が腎水を克す、賊邪と為す。弦細にして長は肝木が腎水を助く、実邪と為す。浮渋にして短は肺金が腎水を生ず、虚邪と為す。洪大にして散は心火が腎水を凌ぐ、微邪と為す。腎脈の搏動:一息に再至を平と為す(古人の法)。三至を病と為して、四肢が逆冷す。四至を脱精と為す。五至を死と為す。六至を命尽と為す。足少陰の気絶ゆれば、骨は枯れ、歯は長くして垢を生じ、骨が先に死する象なり。腎死臓脈は浮取すれば堅、按ずるに乱れて転転として、石を弾ずるがごとく、主として死す。
腎は冬水に応じ、沈脈は「蔵蟄の象」である。腎は精を蔵し、"先天の本"と為す。沈にして搏つは胃気あり、但だ沈のみにして搏たざるは真臓脈と為す。腎は骨を主り、歯は骨の余と為し、耳は腎の官と為す。旧正月の恐れは腎を傷る最も重要な情志である。
沈脈は循環機能の低下やアルドステロン系の亢進に関連しうるが、単独で腎機能障害を意味するものではない。腎と骨・歯との関連は、ビタミンD代謝やカルシウム調節を介した現代内分泌学と呼応する点がある。「精」の概念は、生殖・成長・発育・抗老化などの複合的な生命活動を象徴する古代概念として理解すべきである。
冬は蔵の季節として、"早く寝て遅く起き、日光を待つ"。過度の消耗・寒冷曝露・恐怖を避け、軽い運動を適度に行う。黒い食材・鹹味は肾に「入る」とされるが、過剰摂取は避ける。これらは一般養生である。
浮脈は表証、外感初期、または血管の表層拡張と関連することが多い。肺は皮毛を主り、鼻に開竅する。これは現代の呼吸器系や皮膚が外界のバリアとして機能することと、ある程度現象的に対応している。ただし「毛折れて乃ち死す」などは古代の予後判断であり、そのまま適用すべきではない。
秋は神気を収斂させ、過度の悲しみで肺を傷つけないようにする。保温に注意し、冷風の刺激を減らす。情志の上では、過度の喜びや悲しみを避ける。これは一般的な養生のアドバイスである。
腎は水に属する(原文では「木」とするが、文義から「水」とするのが妥当である)。膀胱と合し、腎経は足少陰であり、足太陽膀胱経と表裏の関係にある。腎の時に対する脈象は沈脈(深く内に在り、強く按じて初めて得られる)である。腎気は秋に相となり、冬に最も旺んで、春に廃となり、夏に囚われ、季夏に死ぬ。壬癸の日、人定・夜半は腎水に応じ、丙丁の日、禺中・日中は邪気に囚われ、戊己の日、食時・日昳は死時である。腎は志を蔵し、液を主り、骨を養い、外候は耳に在り、声は呻、色は黒、臭は腐、液は唾、味は鹹、宜とするは酸、悪むは甘である。腎俞は第十四椎に在り、募は京門である。膀胱俞は第十九椎に在り、募は中極である。
腎は北方の水に応じ、万物閉蔵を主る。冬は百虫が伏せ蛰居し、陽気は下陷し、陰気は上昇する。脈象は沈である。沈は裏を主り、冬には発汗してはならない。発汗すれば、伏虫が土より出でて霜氷を見るかのようである。また妄りに下してはならない。下すれば脾を傷り、脾弱れば水湿が妄りに流行する。もし焼針、燻蒸などの法を用いて強いてその汗を発すれば、客熱が内に入り、喘息、口舌生瘡、陰陽錯乱を引き起こし、甚だしきは結胸、下利清溲などに至る。これは冬脈の沈蔵は時令に逆らって妄治してはならないことを強調している。
冬脈は営の如し(沈んで抟聚する)。太過なれば脈来たること弾石の如く、病は外に主り、不及なれば去ること数の如く、病は中に主る。太过なれば身体懈惰、脊脈痛、少気懶言。不及なれば心中空虚にして飢えたるが如く、脛は清冷、脊痛、少腹胀満、小便黄赤。
腎の平脈は喘喘累累として鈎の如く、按じれば堅し。病脈は葛を引くが如く、按ずるに従いて益々堅し。死脈は索を奪うが如く発し、辟辟として弾石の如し。真腎脈至れば、抟して断絶し、指を弾く石の如く、色は黄黒にして沢なく、毛折を危候とする。冬に胃気微かに石を兼ねるを平と為し、石多く胃気少なきは腎病、石だけで胃気無きは死と為す。腎は精を蔵し、精は志に舎す。大いに怒りて止まざれば則ち志を傷る。志傷れれば則ち前言を忘れ、腰脊痛み、俯仰便ならず、季夏に多く重篤となる。
冬季に腎水が旺んなる時、平脈は沈濡にして滑である。もし反って大にして緩を見ば、これは脾土が腎水を克するもので、賊邪である。弦細にして長は肝木が腎水を助くるもので、実邪である。浮渋にして短は肺金が腎水を生ずるもので、虚邪である。洪大にして散は心火が腎水を凌ぐもので、微邪である。腎脈の搏動:一息に再至を平と為し、三至を病と為し、四至は脱精、五至は死、六至は命尽くと為す。腎脈の急甚しきは骨痿、癲疾、微急は奔豚、足不收、二便不利。緩甚しきは折脊、微緩は洞下、食入りて即ち吐く。大甚しきは陰痿、微大は石水、小腹腫れて胃脘に至る。小甚しきは洞泄、微小は消瘅。滑甚しきは癃閉、微滑は骨痿、坐して起く能わず、視物昏花。渋甚しきは大癰、微渋は閉経、内痔。足少陰の気絶えば則ち骨枯る。肌肉は附着する能わず、歯長じて垢つき、髪に沢無きは、骨先に死するの象である。腎の死臓脈は浮取すれば堅く、按ずれば乱れて転丸の如く、深く尺部に入り、死を主る。
腎は冬の水に応じ、沈脈は「閉蔵の象」である。冬季は陽気が内に蔵される故、脈は沈んで実する。もし沈んで弾石の如く柔和さが無ければ、即ち真臓脈となる。腎は精を蔵し、骨を主り、髄を生じ、耳に開竅し、その液は唾である。情志の「盛んなる怒は志を傷る」は、恐と怒の過度はいずれも精を動かし腎を傷ることを説明している。文中で特に冬脈は妄汗、妄下、妄燻してはならないと強調しており、「四時に順応する」治療禁忌を示している。
沈脈は血管の位置が深い、末梢抵抗または循環状態と関連することが多く、正常者でも冬季や体格が壮実な場合に見られる。腎主骨、蔵精などの理論は、系統的調節および内分泌、生殖、骨骼などの多層面における類比的意味を持つが、現代の腎臓と同一視することはできない。真臓脈の「弾石の如し」は血管の硬直、弾性の極度の低下を示し、古代における重篤な病態の脈象に対する観察である。
冬季は精気を潜蔵させ、過度の疲労、大汗、徹夜、驚きや恐れを避ける。保温に注意し、房事を節制し、飲食は過度に塩辛くしない。これらは一般的な冬の養生原則である。
卜瓜按(訳者注):《脈経》巻三は脈象と予後を多く論じるが、その核心は「脈を按じて生死を断ずる」ことではなく、「脈は胃気を本と為し、四時・五脏を相参する」ことにある。以上の各部の病候、死候は、いずれも古代医家の観察と理論的推演に属し、歴史的文脈の中で理解されるべきである。本内容は中医の古典古籍に基づくもので、伝統文化の学習と研究のためのみに供し、いかなる医療診断、投薬または治療のアドバイスを構成するものではない。不調がある場合は、適時に医師の診察を受けてください。