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Capítulo 22 de 35
周易参同契
耳・目・口は、人と外界とを結ぶ三つの宝(重要なる門戸)である。修行の要は、これらを収め閉ざし、気・血・神がこの三つの場所から外へ漏れ散らないようにすることにある。幽かな本来の内なる覚性(真人、すなわち人本来の真実の本性)は、意識の深い淵の底に潜み、自由に漂いながらも、その中心たる「規中」(身と心が一つになる内なる中心、中道)から決して離れない。視覚や聴覚は外へ追い求めることなく、内へと向き直って照らす。一つの開きや閉じも、すべて自然のリズムに叶っている。この三つ(耳・目・口)がすなわち、人が自分の主人公となる枢機である。これを掴み持てば、動きと静けさの間に尽きせぬ生気が湧いてくる。
目は外の色彩を追い求めず、内を守って神を養い、耳は外の音を追わず、返って聴いて精を養い、口は多くを語らず、沈黙して気を養う。言葉を少なくして、混沌としてまだ分かれぬ本源のありように従うのである。三つをすでにしっかりと守れば、身体は自然とゆるみ、まるで静かなる虚空の室に独りいるかのようである。心のすべては虚無(執着も作為もない本然の状態)に委ねられ、無念をもって常なる境地とする。この状態は堅固にして動かしがたく、心は一つに専らにして散乱せず駆け回らない。眠るときも目覚めているときも、心の神は終始、内なる真性と抱き合って離れず、覚知の中にあって気の存亡の変化を観照する。
こうして長く修め続ければ、顔色はしだいに潤いを帯び、骨や関節はますます健やかになる。体内の陰濁にして不正なる気は追い払われて、それから純陽の気がようやく確立する。絶え間なく身心を養い修めれば、真の気は春の雲が雨に化するがごとく自ずと運行する。充ち満ちて柔らかな春の恵みの雨のようであり、流れては氷雪の解けるように、頭から足の先へ、また下から上がってまた循環し、往来があって尽きることがない。充ち満ちて、身の内のすべてに行き渡る。
「反(かえ)る」は道の応験なり、即ちもとへと向かい、もとに還ることは、大いなる道が働くことの証である。「弱」は徳の枢要なり、即ち弱く柔らかであり争わないことは、まさに徳(道が身心に現れたもの)の要である。あたかも大地を耕し、古く濁った汚れを収め除くように、精妙この上ない細かな所からしだいに調い、通りがよくなるのである。濁っていることは澄明へいたる道のりであり、 長く昏れていても、やがてはのどやかに明らかとなる。
本章は前章「己を養い母を守る」の宗旨を継いで、修行の取り掛かりを「三宝」、すなわち耳・目・口という三つの感覚の門戸に置く。核心の理路は次の通りである:外に三つの門を閉じ、内に一つの中心を守る。静寂より定に入り、定より変が生じる。繰り返しもとに立ち還り、濁を背景として清へと還る。
「耳目口三宝,閉門すれば通じを発せざれ」が全体の総綱を指し示す:人間の精・気・神が外へ消耗して散っていくのは、主として耳・目・口という三つの通路を通ってである。これを閉じれば、内のエネルギーは養われ蓄えられて漏れない。「真人は深淵に潜む」という一句はきわめて重要で、真の本性はもともとそこにあり、外に求める必要はない。ただ深く沈んで内に耽り、「規中」という中道の核心を守り、感覚を外へ向けて攀じ寄らせなければ、おのずと身心は一つになる。
「反なる者は道の応験なり,弱き者は徳の枘なり」の二句は全章の哲学的点睛である:あらゆる修めることは、根本的にはすべて「反」――外への馳せに出ずるところから内への守りへ、為すあるところから為すなきところへ、剛強から柔弱へ――である。これは『老子道徳経』における「反者道之動,弱者道之用」(反は道の動きであり、弱は道の用なり)という言葉を、身心の修養へと引き寄せて広げた表現にほかならない。
この章が現代にとってもっとも現実的な意味を持つのは、感覚の過負荷と注意の散逸への洞察である。現代人の目は情報の流れに引き摺られ、耳は通知の音に絶えずわずらわされ、口は発信と消費の中で語りつづける。耳・目・口という三つの宝は、三つの「漏れ」――注意力の漏れ、精力の漏れ、心の 神気の漏れ、になってしまった。「閉門」を現代の言葉で言い換えれば、注意力と感覚への入力を能動的に管理することである: むやみに処理せず、きかず、しゃべらず、外部の刺激で満たされないための自らの時間と空間を持ちこたえること。
「志を委ねて虚無にかえる,念なきを以って常とす」という表現が描写するのは、断滅的な刹那滅のことではなく、精神を減らして身を軽くし取り戻した後の清明である。現代のマインドフルネスや瞑想が追い求める「今ここの戻る、評価を手放す」という境地は、この「無念」と深い所で呼応しあう――無念は念を起こさないことではなく、念に引かれて動じないことである。「濁なるは清の路,昏き久しければ即ち昭明なり」という一句もまた、混乱や焦燥、昏沈は修行の対極にあるものではなく、まさに清明へ向かう起点の一つであることを教えている。濁りを認めること、しずかにたたえることが、それ自体で道なのである。
「反なる者は道の応験なり」という一句には、万物が極に達すれば必ずその逆へと向かうこと、最も深い運動は根元へ還ろうとする営みであること、という道家の世界の働きに関する根本的な洞察が宿っている。この事を修行の則と生活の戒めとするだけでなく、も一つの一つの宇宙観であり歴史観をもなのである。それに対応する「弱者は徳の枘なり」は、「柔弱」をもはや戦略から、存在の次元で必然と昇華させている——本当の力は外側の剛強にではなく、内なるしなやかさと持続性にこそ現れる。
「濁なるは清の路」というのはまた、深刻な逆理の構造を含んでいる:清と濁は二つの対立物ではなく、同じ道程の異なる段階である。水は澄む無理にもせゆらぎを経るよう、人が明澄へ進む道の前にいわず混乱を経る。これは『荘子』の「以明(昭かにひらく)」という考え方――是非の両端に執着せず、流転変化の全きをおいて後に観るのと通じる。この視点から言えば、この章が描き出すのはひとつの修養法というのみではなく、**いのちが変容してゆく道筋についての哲学的な表現(存在の生成)**なのである——すべての下降は上昇への蓄えとしてあり、昏味は昭明をはらんでもいる。
関連概念
発展する読みもの
本内容は道家の古典典籍に基づくもので、伝統文化の学びと人生の思索の供のみ目的としており、宗教的、医療的、助言(ファイナンシャル)への助言とはいたしかねます。