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卜筮全书
動静、陰陽は、卦の中で繰り返し遷移変化する。いわゆる「遷変」とは、爻の互化を指す。たとえば乾卦☰三連の象:下爻が動けば巽卦☴に化し、上爻が動けば兌卦☱に化し、中爻が動けば離卦☲に化し、三爻全てが動けば坤卦☷に化し、中爻が動かなければ坎卦☵に化する、などの類いである。ある人は安静卦の中で「単」が「拆」に化し、「拆」が「単」に化すると言うが、これは誤りである。卦爻には動きがあって初めて変わりがあり、動きがなければ変わらない。
譬えば穀物という物:もしそれを動かさなければ、結局はただの穀物に過ぎない。それを搗いて精米にし、更に炊いて飯にする。その搗くことと炊くことは、卦爻の發動にあたる。米と飯は、卦爻の変化にあたる。しかし穀物を搗いて米にしても、粒が完全で食料にできるものもあれば、砕けて整わず碎米になるものもあり、また糠粃で人の用に堪えないものもある。米を炊いて飯にするにしても、精米で人が喜んで食べるものもあれば、腐って変な味がして人が嫌がって食べないものもある。つまり米も飯も美悪の違いがあり、変じた爻にも吉凶の違いがあるのと同じである。
私は《天玄賦》の中に「静化」「動化」の説があるのを見たが、これは動かない爻も変じ得ると言うものである。今の人々は互いにその法を踏襲し、しばしば安静卦を変卦とする。およそこの類いは、すべて卜易の大きな問題であり、弁明しないわけにはいかない。私がやむを得ず説明する所以である。また一爻だけ変じるものもあるが、もし乱動すれば変わらない——これもまた私の知らないところである。
万象は紛糾複雑であるが、必ず一つの理をもって融会貫通しなければならない。象とは、空亡・三刑・生合などの象であり、理とは、生克制化の理である。
人には賢と不肖の違いがあり、卦には太過与不及の差異がある。太過のものは、それを減損して初めて事を成し、不及のものは、それを増益して初めて利益がある。賢と不肖の違いは、人が生まれながらにして斉しくないことである。太過与不及の差異は、卦爻が本来均衡ではないことである。人は中庸の徳を最高の境地とし、卦は中和の象を最も美しい状態とする。徳が中庸に達すれば、どこへ行っても善くないことはなく、卦象が中和に達すれば、何を求めても心のままにならないことはない。だから凡そ易を占うには、その太過を抑え、その不及を導き、中道に帰すれば、万事が知らぬ間に成就する。これは卜易の大宗旨であり、篇の冒頭に掲げて明らかにする所以である。
今の人々はただ「不及」が事を成さないことを知るだけで、「太过」もまた事を成さないことを知らない。何を太过と言うのか?主事爻が重畳し過ぎることである。多ければ専一にできず、ゆえに福を成就できないから、減損すべきである。何を不及と言うのか?主事爻がただ一位だけで、しかも時令に得ていないことである。不及ならば無気であり、ゆえに事を成せないから、増益すべきである。損益の道とは、すなわち生扶拱合と克害刑冲である。
たとえば土が主事爻なら、三五重あれば太过であり、寅・卯月または寅・卯日、あるいは卦中に寅・卯爻が發動してそれを克することが必要で、そうして初めて事を成す。これが「損之」である。また金が主事爻なら、夏の月令の中では無気であり、月建・日辰の生扶を得、あるいは動爻の合助があって初めて成功があり得る。これが「益之」である。大まかに言えば、太过のものは、吉もその吉を成せず、凶もその凶を成さない。
生扶拱合は、時雨が禾苗を潤すが如し。 生とは相生を指す。たとえば用爻が金なら、辰戌丑未の日に占って得るか、卦中の動爻が土に属するのがこれである。扶とは、卯爻が寅日に見えること、酉爻が申日に見えること、子が亥を見、午が巳を見、丑未が辰戌を見る類いである。拱とは、寅爻が卯日に見えること、申爻が酉日に見えること、亥が子を見、巳が午を見る類いである。合とは、二合・六合・三合の類いである。二合は子と丑の合の如く、三合は申子辰が水局を合成するが如し。以上の四者は、いずれも維持調護する力がある。爻象が弱いものはこれに遇えば強くなり、衰えたものは見れば旺んになり、伏藏したものは見れば立ち上がる。ゆえに時雨が禾苗を潤すのに譬えるのである。しかしまた吉凶の弁別もある:用爻がこれを見れば吉であり、忌爻がこれを見れば凶である——これはいわゆる桀を助けて虐を行い、その悪は更に甚だしい。学ぶ者は自ら用神を弁別すべきである。以下の三条も同じように推す。
克害刑冲は、秋霜が草木を肅殺するが如し。 克とは相克を指し、五行制圧の神である。害とは六害を指し、地支相凌の神である。刑とは三刑を指し、その意は仇敵の如くである。冲とは对冲を指し、勢いは戦闘のようである。以上の四者は、身を傷つけ、徳を敗り、制伏し、事を壊すことができる。ゆえに秋霜が草を殺すのに譬えるのである。ただ忌神がこれに遇えば却って吉となる。
長生帝旺は、争いて金谷の園の如し。 長生・帝旺は、十二長生星の中でも至吉のものである。六爻がこれに遇えば、衰弱でもなお有気と見なす。ゆえに金谷園をもって譬えるのである。もし事を成すことを推断するなら、帝旺は速成を主とし、長生はやや遅いことを主とする。長生は人の初生の如く、まだ強盛でないからである。帝旺は壮年の時の如く、血気剛く、その力鋭く進むからである。ゆえに長生は遅く帝旺は速い。
死墓絶空は、すなわち泥犁の地なり。 死・墓・絶は、いずれも長生から起算する。空は空亡である。四者がこれに遇えば、陥らないものはない。時に得て旺相でも、事を成さない。ゆえに泥犁をもって譬えるのである。死は即ち亡、人の病に患いて死するが如く。墓は即ち蔽、人死して墓に葬られるを譬える。絶は即ち厭絶、人の墓に葬られて根絶するが如く。空は即ち虚、深淵や薄氷の処の如く、近づいたり踏んだりできない。泥犁は地獄の名であり、至凶を言う。しかし凶神がこれに遇えば、則ちまた却って我が吉となる。
日辰は六爻の主宰にして、其の項を滅し劉を安んずるを喜ぶ。 日辰は卜筮の主宰である。日辰を見なければ、軽重を知らない。日辰が安静卦の爻象を衝動し、安静卦の爻神を並起し、發動したものを制伏し、凶悪なものを抑制し、強旺なものを挫き、衰弱なものを扶持し、生合のものを衝破することができるからである。古人は「日辰は事を救うことができ、事を壊すこともできる」と言った。まさにこの意である。ゆえに六爻の主宰とするのである。
たとえば文書を占うに、卦中に財爻が發動すれば、これは文書が壊される。もし日辰が財爻を合住し、あるいは冲散し、あるいは克制して、それが父母爻を傷つけるのを許さなければ、文書は有気であり、その事は成り得る。これが事を救うことができる所以である。また子孫を占うに、卦中に父母が動かず、福德爻が空でなければ、その兆はもともと吉である。もし日辰が父母を冲扶し、子孫を刑害すれば、吉を変じて凶とする。これが事を壊すことができる所以である。日辰が用爻を扶持すれば吉であり、忌爻を扶持すれば凶であり、忌爻を克制すれば吉であり、用爻を克制すれば凶である。
たとえば七月乙未日に兄弟の病を占い、同人の无妄卦を得た。卦中の鬼爻が動いて主象を克し、絶爻もまた動いて、その凶は知るべきである。幸いに日辰未土が官爻を克し壞し、主象を合起した——いわゆる「項を滅し劉を安んずる」であり、後に果たして無事であった。
月建は万卜の綱領にして、豈に桀を助けて虐をするを得んや。 月建は龍徳の神であり、ゆえに卜卦はこれを綱領とする。その刑冲克害の有無、生扶拱合の有無を詳察し、世身主象と干渉があるか無いかを見れば、吉凶が直ちに見える。月建中に有るのは、すなわち真に有るのであり、事を壊すなら、真正に事を壊すのである。
たとえば財を占うに、卦中に財が無ければ、月建が財なら、後へ向かって結局得られる。もし卦中に財が有って、月建が財を克すれば、必ず艱難阻滞を主とし、この一月を過ぎて初めて財を得られる。もし卦中に財が無く、月建にもまた財が無く、而して日辰が財なら、当日に少しあることを許す。財が少なく克を受ければ中用いない。月建が事を成すことができ、日辰で即ち扶助できるからである。
また五月に小児の病を占い、大过卦を得た。卦中に子孫爻が無く、而して月建午火が正に旺んで主象となり、その死亡を断じなかった。この他の余りはこれに仿う。凡そ月建を見るには、日辰と同じに論ずる。またそれが用爻を扶持し、忌爻を克制するを喜ぶ。忌爻が旺動してまたそれを生扶すれば、すなわち桀を助けて虐とするのであり、その禍は殊更に厳しい。
最も悪むは歳君にして、静なるを宜とし動くを宜とせず。 太歳は天子の爻である。もし来って世身主象を冲克すれば、災厄不利を主とし、一年の中多く静かでない。ゆえにこの星を最も悪むのである。しかし貴人は却ってこれを見るを宜とする。もし三刑六害を帯びれば、その禍は殊更に甚だしく、貴人でもまた宜しくない。もし主事爻として卦に入れば、その事は必ず朝廷に関係し、官職を求め謀るに利あり。常人において事を用うれば、凶多く吉少なし。しかしこの爻は安静を喜び、發動を好まない。もし日辰動爻によって冲起されれば、必ず災患が有る。
最も要なるは身位にして、扶を喜び傷を喜ばず。 身とは即ち月卦身である。その法と口訣は第一巻に見える。大まかに成卦の後、まず卦身の現れると現れないを見、月建・日辰・動爻と干渉があるか無いかを見れば、吉凶が直ちに見える。ゆえに卜易は身を最も要とする。見ざるべからず。
たとえば困卦を得れば、身爻は午にある。兌宮は午火を官鬼と為す。旺んずれば官非であり、衰うれば疾病である。また未济卦では、卦身は寅にある。もし日辰が申巳で来ってこれを冲刑すれば、離宮は寅木を父母と為すから、尊長の干渉、あるいは文書の相干を知る。また兄弟爻が動き、卦身と相併せば、衰うれば虚詐であり、旺んずれば口舌怪异である。もし出現して変動すれば、五類の所主に依って推断する。人の貴賤を占うようなら、身が財爻に遇い父母を化出すれば、必ず芸を持つ富人である。この他の余りはこれに仿う。
大凡そ卦身は、事を占うには事体となり、人を占うには人身となる。扶を喜び傷を喜ばない。凡そ「扶」と言えば、生・并・拱・合はすべてその中にあり、「傷」と言えば、また刑冲克害を兼ねる。世の人々は多く「子午持世身居初」の身爻をもって用いるが、多くは験なし。しかもその義を未だ曉らない。私は《卜易玄机》《金鎖玄関》の中に「卦身の身」を明言したのを見て、甚だ旨を得たりと為す。ゆえに彼の説を捨てて此の説を取る。
世は己と為し、応は人と為し、大いに契合するを宜とす。 卜卦は世応を分かつ。賓主の象である。世は己と為し、応は人と事と為す。人に彼此の分かちがあるから、人情の好悪を弁別するのである。謀を求め事を用うるには、生合比和を得れば、則ち成就がある。もし刑冲克害なら、必ず艱難を主とする。これが大いに契合するを宜とするところである。《海底眼》に言う:世応相克すれば、縦え好事でも必ず力を費やす。
動は始と為し、変は終と為し、最も交争を怕る。 交・重は動である。動すれば則ち陰が陽に変じ、陽が陰に変ずる。卦中に遇えば、当に動爻を以て事の始と為し、変爻を以て事の終と為すべきである。人の来たるを占うなら、小畜の乾卦を得る。辛未爻が動き、壬午子孫を変出して来って合する。必ず婦人が小児を帯びて来たる。他はこれに仿う。最も交争を怕るとは、主事爻が子水に臨んで動き、未土を変出して来って我を克害するが如き、すなわち大凶の兆である。縦え用爻が旺相を得ても、後に行き着く所で心のままに儘にならない。
応位が傷を受くれば、他人の事に利あらず。世爻が制を受けねば、豈に自己の謀に宜しきや。 応が傷を受くれば、代占に利あらず。代占は応を主とするからである。世が傷を受くれば、自占に利あらず。自占は世を主とするからである。もし世応が凶に逢い而して此に遇えば、則ち此を以て断ずるなかれ。
世応ともに空なれば、人に准実なし。 世応二爻は空亡の地にあるべからず。世空は自己が実ならず、応空は他人が実ならざることである。世応ともに空なれば、彼此ともに准実なく、謀事は必ず阻節が有る。もし安静卦で、世応空合すれば、之を失約无诚信と謂う。もし忌爻が發動旺相なら、則ちその落空を宜とする。
内外競発すれば、事必ず翻腾す。 卦中の一爻二爻が發動すれば、則ち変化が常を有し、生克が乱れず、或いは吉或いは凶自ら条理が有る。もし内外の爻象が紛紛として競発すれば、則ち吉凶が定まらず、人情が常ならず。必ず事体の反覆を主とし、結局定論がない。《海底眼》に言う:独発は取り易く、乱動は求め難し。まさにこの意である。
世または交重すれば、両目馬首を顧瞻す。応の発動するが如きは、一心猿の攀に託するが似し。 世応はいずれも動くべきではない。動けば則ち反変して常ならず。馬首を瞻るは、或いは東或いは西。猿猴が木に攀じるは、身心が定まらない。いずれもその遷変更改を言い、思慮を専一にできない。ただ世は自己を以て言い、応は他人を以て言う。《海底眼》に言う:応が動けば他人の心は変じ易し。応を以て推せば、世も知るべきである。
用爻が有気にして他に故無ければ、作す所皆な成る。主象が徒に存して更に傷を受くれば、凡そ謀るも遂げず。 用爻は即ち主事爻である。たとえば文書・尊長・音信などの事を占うなら、父母を以て主象と為し、財を求め、妻妾・婦人などは、財爻を以て主象と為す類いである。旺相有気を喜び、衰弱無力を宜としない。もし用爻が有気にして、他に月建・日辰・動爻の刑冲克害が無ければ、すなわち上吉の好卦であり、心の欲する所に従って意に適わないことはない。もし用爻が無気にして、また日辰・動爻の克害刑冲を受ければ、すなわち大凶の下卦であり、心力を枉げ費やし、必ず成る理が無い。用爻が衰弱で、他に生助が無ければ、空伏と同じであり、縦え出現しても、やはり無用の物である。ゆえに「徒存」と言うのである。
傷有れば須く救うべし。 傷とは、身世主象が他爻によって傷つけられることを指す。救とは、動爻日辰が忌爻を制伏することである。たとえば用が申金に臨みて午火の動克を受ければ、申爻が傷を受ける。もし日辰が未字で午火を合住し、それが克するのを許さなければ、日辰が子字で午火を冲散し、来って克することができなければ、日辰が亥字で午火を制伏し、その克を許さなければ、皆「有救」と為す。他の刑害などの類いは、皆これに仿う。もし世身主象が月建日辰によって傷つけられれば、則ち真にその禍を受ける。二者が卜卦の主であり、救うべき道が無いからである。
故無くして空を勿れ。 旬中の空亡には、故有って空なるものと、故無くして空なるものとがある。凡そ日月動爻の傷克に遇い而して空亡に在るを、故有って空と謂い、避けて即可し。もし刑冲克害が無くして、身世主象が自ら空亡に落ちるを、これ故無くして空と謂い、大凶の兆である。病を占えば必ず死し、事を占えば成らず、人を占えば難が有る。空なれば則ち日辰動爻が有っても、なお扶持救援し難いからである。
空は冲に逢いて用有り。 凡そ卦爻の空亡に遇えば、今の人は吉凶を問わず、一概に無用と論ずる。殊不知、冲を見れば用有るべきこともある。冲すれば則ち必ず動き、動けば則ち空でないからである。ゆえに空でも用が有るのである。たとえば戊午日に天時を占い、升の乾卦を得た(虎易の説明:此卦は引用が適当でない。无妄の乾卦に換えるのが宜しい)。卦中の父母が空亡であるが、日辰に衝動されて、必ず雨が有る。ただ火空の冲を見るは吉でないことを忌む。
合は破に遭いて功無し。 卦中に合が有れば、謀る所、遂げ易い。二人が同心協力すれば、事は必ず成り得る。ただ奸詐の小人が両辺を破壊することを恐れ、必ずや猜忌の心が生じないとも限らない。ゆえに凡そ合に遇えば、刑冲克害が来ってこれを破るを防ぐべきである。破れれば則ち合を成さない。たとえば寅亥両爻はもと相和合する。もし申字が動けば、申金が寅木を克し、また亥水を害する。ゆえに合でも功が無い。三合も理は同じである。《天玄賦》に「合処逢冲」の論が有り、宜しく詳しく玩味すべきである。
自空化空すれば、必ず凶咎を成す。 六甲空亡は、深淵大壑の如く、人が踏み入れるべからざる地である。もし世身主象が故無くして自ら空に入り、あるいは發動して空に入れば、皆大凶の兆であり、事を作すに利あらず。ただ忌爻の見るのは反って吉である。
刑合克合すれば、終に乖淫を見る。 合は即ち和合である。凡そ占いにおいて見れば吉ならざるは無い。しかし人は合わせて刑克が有ることを知らない。合して克有れば、結局は和せず、合して刑有れば、終に乖戻となる。たとえば用の午字を財爻と為し、未字を福德爻と為せば、午と未は合す。しかるに午は自刑を帯び、名づけて刑合と為す。妻妾を占えば多く正しからず、財を占うもまた正しからざるの財である。克合は丑子の類いである。この他の余りは皆これに仿う(虎易の説明:以上の「午字を財爻と為し、未字を福德爻と為す」は、両者の関係を顛倒している。読者は自ら弁別すべきである)。
動が合に値すれば則ち绊住す。 大凡そ動爻が合爻に遇わなければ、然る後に動と為す。もし合が有れば、則ち绊住して動くことができない。ゆえに動でも静爻と論ずる。しかし吉凶が有り、一概には論じられない。たとえば財を用いて兄弟が發動すれば、もし日辰が兄弟を合住すれば、則ち克することができず、而して財爻はその傷を受けない。子孫が發動して日辰によって合住されれば、則ち財を生むことができず、而して財爻はその恵みを得ない。ゆえに凡そ忌む所の爻が動いて合わされ住めば、則ち凶を成さず、喜ぶ所の爻が動いて合わされ住めば、則ち事を済まさない。三合は三爻が俱に動いて合住と為し、六合は両爻が俱に動いて合住と為す。
静は冲を得て暗に興る。 大凡そ六爻の動かない卦を得れば、直ちに安静と為すべからず。もし日辰に冲されれば、則ち静でも動く。譬えば夜間に熟睡する人を、人が邪魔しなければ目覚めない。もし人に冲唤・推摸・摇拽せられ、百計叫び醒まされれば、安眠することができない。ゆえに《天玄賦》は「逢冲暗動」と以為う。ただ日辰のみを以て取るべからず。旺動の爻もまた冲起することができる。その吉凶の詳細は《天玄賦》の中に見える。
入墓すれば克し難し。 墓は即ち滞である。動爻がこれに遇えば、また沈滞して洒脱にできない。たとえば寅が主象で、卦中に酉字・丑字が動出すれば、本来酉金が寅木を克傷するを嫌う。喜ぶべきは丑はすなわち金の墓庫であり、則ち酉金は墓に入るに貪り、而して寅木はその傷を受けない。この他の余りはこれに仿いて推断する。刑冲克害も当に同じく見るべきである。
旺を帯びれば匪く空なり。 旺は即ち旺相爻である。春月木旺火相・夏月火旺土相・秋月金旺水相・冬月水旺木相・四季の月土旺金相を指す。古人が「当に生ずる者は旺に、生ぜらるる者は相と為す」と言うのがこれである。此の爻が空亡なら、空と論じない。それが有気だからである。眼の下に阻が有っても、旬を過ぎれば則ち成る。古人は「旺相空亡過一旬」と言うが、この一旬を過ぎれば即ち空でなくなり、而して謀事が始めて成ることを指す。
助有り扶有れば、衰弱休囚でも亦た吉。 これは主事爻を指して言う。主事爻が無気なのは本も不美である。日辰・動爻・月建の生扶合并を得るを喜ぶ。則ち無気でも衰弱と論じない。譬えば貧賤の人が貴人の提拔に遇えば、困苦が扶持の下に忘れられるが如くである。ただ忌爻は無気で扶するべからず。
生に貪り合に貪れば、刑冲克害も皆な忘る。 刑冲克害の四者は、皆凶悪の神である。もし旁らに生爻合爻が有れば、則ちそれは生に貪り合に貪り、自然に患と為さない。ゆえに「忘」と言うのである。たとえば世が子水に坐し、卯字が動出されれば、これは正に无礼の刑に属し、本は凶兆である。もし旁の爻が戌字を動出せば、則ち卯は戌合に貪り、子を刑する暇がない。これが貪合忘刑の例である。また世が巳字に坐し、卦中の寅字が動出されれば、木は火を生ずることができ、ゆえにその刑を忘れる。また用が巳字に臨み、亥字が動出されれば、亥は本巳を冲す。もし卯字を動出せば、則ち亥水は卯木を生ずるに貪り、巳を冲する暇がない。これは貪生忘冲の例である。この他の余りは皆これに仿いて推し詳らかにする。
衰旺を別ちて克合を明らかにし、動静を辨じて刑冲を定む。 地支に和しないものが有るのは、その相克を怪しむに足らない。相冲・相刑・相害がこれである。しかし衰旺・動静を弁別しなければ、運用に過ちが生じる。旺爻は衰爻を克することができ、衰爻は旺爻を克するに及ばず、旺爻は衰爻を合わせ起すことができ、衰爻は旺爻を合わせ起すに及ばない。動爻は静爻を刑し得るが、静爻は動爻を刑し得ない。動爻は静爻を冲し得るが、静爻は動爻を冲し得ない。この他の余りは皆これに仿う。また日辰と卦爻については、日辰は卦爻を害し得るが、卦爻は日辰を害し得ない。
あるいは問う:静と衰爻は動と旺を傷つけ得ないなら、動爻が却って衰し、静爻が却って旺なら、どうするか?答え:両爻俱に静なら旺を以て先と為し、動が有れば動を以て急と為す。動は人の起身に譬え、静は人の伏臥に譬えるからである。彼は旺でも、何の恐れるに足ろうか。ゆえに「動爻急如火」と言う。婚を占えば間爻を以て媒と為す。間に両爻あるも、当に此を以てこれを定むべきである。もし俱に静であり俱に動であり、あるいは旺が無く衰が無ければ、則ち当に動爻・日辰の冲する者を取って正と為す。冲が無ければ、並起する者を見て媒と為す。また合并が無ければ、然る後日辰の生扶する爻を見るのである。此くの如くすれば事は一に帰し、而して両端の疑いが無い。此の篇は卜筮の精微の処である。ゆえに凡そ此の類いは弁えないわけにはいかず、載せないわけにはいかない。易を学ぶ者は瑣碎と視することなかれ。
并せず・冲せず、多く字眼あるが因なり。刑にあらざる・合にあらざる、支神の少なきが為なり。 卦爻がすでに成れば、合并刑冲などの類いが免れない。しかし一字多ければその名を成さず、一字少なくてもその名を成さない。たとえば子日に卜卦し、卦中に一つの子字があれば之を并と謂う。もし二字の子があれば、則ち分かれて過ぎてしまう。名は并と言えど、実は并することができない。二つの午ならば冲さず、二つの丑ならば合さず、二つの未ならば害さず、二つの卯ならば刑さず、二つの巳ならば克さない。これは一字多くてその名を成さない類いである。
また寅巳申を三刑と為す。もし寅巳の二字が有って申字が無く、あるいは寅申の両字が有って巳字が無く、あるいは申巳の両字が有って寅字が無ければ、則ち刑を成さない。また亥卯未を三合と為す。もし卯未が有って亥が無く、あるいは亥卯が有って未が無く、あるいは亥未が有って卯が無ければ、則ち合を成さない。これは一字少なくて其の合を成さない類いである。三刑三合は、須く両爻が動き、一爻を刑合し得るを見るべし。一爻が動けば、両爻を刑合し得ない。これまた知らざるべからず。
三刑の古訣は丑が戌を刑し、戌が未を刑し、未が丑を刑する類いを謂うが、最も初学を誤らせる。三者が相見えれば彼此ともに刑するのであり、丑が戌を刑して未を刑することができない、未が丑を刑して戌を刑することができないというのではない。辰午酉亥の如きを自刑と為し、《問卜易覧》は辰の辰を見る、午の午を見る、酉の酉を見る、亥の亥を見るをもって定めるが、殊に謬妄である。自刑はそれが自分自身を刑し、他爻と相刑しない意であり、何ぞ必ずしも辰を見て午を見て初めて刑と為さんや。
爻が令星に遇えば、物も我を害し難し。 令星は即ち四時月令の辰:春は木、夏は火、秋は金、冬は水である。また時を得て健旺なる星でもある。刑冲克害を見ても、その勢を挫折させることができない。ゆえに「物も我を害し難し」と言い、空に逢えば則ち半分の力である。
伏が空地に居れば、事と心と違う。 伏は即ち伏神である。卦上の六爻を飛神と為し、飛の下、本宮の六爻を伏神と為す。飛は顕と為し、伏は隠と為す。もし卦に主事爻が有れば、更に伏神を尋ぬるに及ばない。もし出現しなければ、須く何の爻の下に伏するかを尋ぬべく、その虚実を見て吉凶を定む。もし六爻に既に主象が無く、伏神もまた空亡に臨めば、事は決して成らない。たとえば丙申日に文書を占い泰卦を得た。六爻に父母が無く、而して本宮の父母が九二の官爻の下に伏しているが、やはり空亡である。ゆえに成ることが無い。
伏は提挈が無ければ終に徒爾なり。飛は摧開せざれば亦た枉然なり。 伏神が空亡なら、凡そ事に利あらず、更に看るに及ばない。もし空亡でなければ、必ず飛神を冲開し、伏神を提起しなければ、然る後に望みが有る。たとえば文書を占い贲卦を得た。六爻に父母が無く、而して丙午の文書が六二己丑の他宮兄弟の下に伏し、知り合いの者が文書を把持していると言える。日辰動爻に未字が有って丑土を刑冲しこれを破し、あるいは寅卯が有って丑土を克することができれば、方可ち伏神の文書が用爻として露出する。また須く子字が得て午火を冲起し、未が有って午火を合起し、寅卯が有って午火を生扶し、方可ちその力を得る。然らずんば遅滞して成り難く、直ちに用有りと指すべからず。ゆえに伏は提を要し、飛は開を要する。二者は偏廃すべきでない。六冲は最も緊しく、六害は出ずまた破すこともできない。卜易の知らざるべからざる所である。
六爻に伏する所は、事に根と苗が有り、終に須く再び発する。動が無く伏が無く、生が無く化が無く、旺気が無く、また世が空亡に坐せば、永く再発する理がない。たとえば十二月甲辰日に人が訴訟されたことを占い、贲卦を得た。世が卯鬼の空亡に坐すれば、すなわち無始と為し、その事はすでに散じた。しかし丙午の文書が他宮の兄弟爻の下に伏しているのを知らず、その時はまだ損壊していなかった。また日辰が空爻の下の本宮丙辰兄弟を並起し、口舌がなお存する。春が来れば木鬼が旺相し、文書を生起し、その事は必ず再び発する。これは伏神を見るの法である。
また丁亥日に訟を占い、观卦を得た。世応は比和で、父母が空亡にあり、之を両無心と謂う。而して世の下の伏神また空亡に落ち、後には必ず争論しない。これは再発しない例である。学ぶ者は宜しく细细と玩味すべきである。
空下の伏神は、引抜き易し。 伏神がもし空亡爻の下に伏するを得れば、扶持し易い。飛爻がすでに空なれば、欄絆が無いが如く、一たび日辰動爻の生扶冲合に遇えば、即ち出でて用と為る。伏爻上の飛神の破れると破れざるを待つに及ばない。ゆえに引擢し易いのである。古人は伏神を論ずるに、用爻の現れると現れないを見ず、皆世上の一爻を以て飛神と為し、世上の本宮一爻を以て伏神と為す。ゆえに八純卦は世下に伏が無く、則ち「乾家の伏神は坤家に取り」の説が有る。愚意以為えらく:すでに用爻が有るなら、何ぞ又伏神を取らんや。用爻が無いが故に、已むを得ず搜索するのである。縦え伏神が用が有っても、成るのが遅く、必ず力を費やすことを主とし、少しでも制約を受けれれば即ち諧わない。もし伏神が透出するを得て、而して月建日辰がまた用爻を帯びれば、方に速成を以て断ずることができる。
制中の弱主は、維持し難し。 用爻が休囚で、また月建日辰によって制伏され、縦え生扶に遇っても事を済さない。衰弱が克に遇うは、人の枯枝朽木に攀じるが如く、豈に挫折しないであろうか。縦え膏の雨の如きが有っても、その回生を望み難い。
日が爻を傷つくるは、真にその禍に罹る。爻が日を傷つくるは、徒にその名を受く。 日辰は六爻の主宰であり、その事を総管する。六爻は日辰の臣属であり、その事を分治する。ゆえに日辰は卦爻を刑冲克害することができ、卦爻は日辰を刑冲克害することができない。月建と卦爻もまた同じである。
墓中の人は、冲せざれば発せず。 大抵用爻が墓に入れば則ち阻滞され、諸事力費えて成り難い。須く日辰動爻が其の墓を冲破しあるいは克破し、方に用が有る。たとえば戊寅日に財を占い、同人の乾卦を得た。用爻が墓に入るが、日辰がこれを克破するを喜び、果たして財が有った。此の一卦は、あるいは用が空で墓に入るを見て財が無いと以為う。殊不知、空でも冲に遇えば实となり、墓でも破剋されれば開くのである。冲空すれば則ち実となり、破墓すれば則ち開く。ゆえに用財が有るのである。
身上の鬼は、去らざれば安んぜず。 六親の中でただ官鬼のみ凶殺と為す。世爻がこれに臨めば、もし職役の人でなく占うなら、凶多く吉少なし。須く日辰動爻がこれを克去して然る後に無事なり。あるいは忌爻が身世に臨むものも亦然り。しかし之を克し過ぎるべからず。然らずんば我もまた傷つく。先聖が言う:人にして不仁なれば、これを疾むこと已に甚だしければ、乱なり。ただ其の中を得るを貴ぶのみ。私はかつて三月丁丑日に身を占い、鼎卦を得て動かなかった。しかし幾日も経ずして泄泻が発作した。後七月甲戌日に身を占い、また鼎卦を得て動かず、乃ち安然無事を得た。前の丁丑日は、三月土が正に旺で、また卦中の子孫辛丑爻が動いて来って克した。これは克し過ぎである。七月は土が衰えているので、無事だったのである。
また癸巳日に郷人が同じく官事を卜し、一人は遁卦を得て、乃ち刑責を受け、一人は恒卦を得て、而して両辺が和释した。この二卦の官鬼が俱に刑爻を帯びて世を持ち、皆非吉の兆である。しかるに遁卦は鬼爻が空でも日辰に扶起され、且つ官を去る爻が無い。恒卦は則ち日辰がこれを去るを喜び、また応が世を生ずるので、無事だったのである。
徳が卦に入れば而して謀の遂げざるは無し。 徳は即ち徳爻である。天地がその徳に合し、すなわち天干地支が上下ともに合するを指し、また龍神とも謂う。生合が妙であり、克合は次ぐ。たとえば戊寅の癸亥に見る、甲子の己丑に見る類いである。此の爻が主象なら、謀る所皆な遂げる。たとえば九月己酉日に文書を占い、小畜の蛊卦を得た。五爻が丙子の文書を動出し、世上の辛丑と合を為す。これは正に天地がその徳に合するものであり、果たして戊子の日に文書が成るに応じた。
忌が身に臨めば而して多く阻み成ること無し。 忌は即ち忌爻である。財を用うれば兄弟が忌爻と為り、官を用うれば子孫が忌爻と為る類いである。此の爻が身世に持臨すれば、公私を問わず、皆阻滞して順でないことを主とする。もし休囚无気なら、また力を費やし艱難するを見、もし旺ならば必ず成らない。他の用いる所もこれに仿う。
卦が凶星に遇えば、これを避くれば則ち吉。 凶星は即ち刑冲克害である。避くとは即ち六甲空亡である。空という字は極めて玄妙が有る。もし真空に執着すれば、先天の旨を失う。百物が自ら空中より来り、無中に生じて有り、還って空に帰すからである。空中は傷克を受けず、反って成るべきの機が有る。たとえば六爻安静で、用爻が故無く自ら空と為るのは、これを真空と為し、万事成ることが無い。もし日辰動爻が用爻を刑冲克害し、而して用爻が空にあるのは、これを凶を避けて空と為す。《金鎖玄関》が「克空為用」と言うのがこれである。すなわち壊れないが、目下は少し阻が有り、旬を過ぎれば即ち成る。たとえば六月壬申日に子の病を占い、姤の大过卦を得た。父母が旺動し、用爻が無気で、本は凶兆である。用爻が空にあってこれを避けるを喜び、果たして丙子の日に愈えた。丙子に至れば則ち前方はすでに過ぎ、また用爻の帝旺の地に遇うからである。
爻が忌殺に逢えば、之を敵すれば傷なし。 忌爻が發動すれば、凡そ事に利あらず。喜ぶべきは比肩同類が用爻を助けて之を敵するを得れば、彼に弱らず、事も亦た成り得る。たとえば用爻が未にあり、而して卦中の寅卯字が動出されれば、則ち土は木に克されて傷つく。もし月建日辰上に辰戌丑未が得て未土を帮扶して之を敵すれば、則ち彼は寡が衆に敵せずして自ら止む。また七月乙未日に脱役の事を占い、損の节卦を得た。官鬼が發動し、財爻が鬼を助けて身を傷つけ、本は脱すべからず。日辰未土を喜び、六五がまた戌土を変出し、世上の丑土を扶助して有気と為して之を敵し、鬼が傷つける能わず。果たして無事に応じた。
主象が休囚なら、刑冲克害を見るを怕る。 休囚は則ち殺に敵することができない。ゆえに見るを怕れる。たとえば五月乙未日に財を占い、泰の大畜卦を得た。用爻が无気であり、また日辰に克害され、果たして望みが無かった。
用爻が変動すれば、死墓絶空に遭うを忌む。 死墓絶空は乃ち陥穽の地であり、大凶の神である。死は復た生ぜず、絶は復た続かず、墓に入れば則ち出ずることができず、堕空すれば則ち起きることができない。もし主象が發動して化入するなら、公私大小の事を問わず、皆成ることを主としない。病に占えばこれに逢えば必ず死するに疑いない。
用が用に化すれば、用有とも用無し。 卦中にすでに用爻が有れば、再び化出するべからず。之を化去と謂う。かつ独り用爻の自化するのみならず、あるいは旁爻が化出しても、皆事を済さない。ゆえに用爻が有っても、用爻の無い卦と同じである。病を占うに特に忌む。
空が空に化すれば、空なりと雖も空にあらず。 たとえば甲辰旬中に卦を占い、卦中の寅が動いて空亡であり、而して卯字を化出しこれもまた空なら、之を空化空と謂う。半分の用と為すことができる。本の寅字は当に空亡に罹ったが、後の卯字は空と為さないからである。ゆえに空なりと雖も空と為さない。《金鎖玄関》が「重空不空」と謂うのもまた此の意である。
養は狐疑を主る。 養は涵養の象であり、すなわち長生中の第十二位の星である。もし主象が此の爻に化入すれば、凡事未だ決せず、狐疑定まらないことを主る。訣に云う:金は辰に養われ、木は戌に養われ、火は丑に養われ、水土は未に養わる。もし用爻が申酉金に属して、動き化出する爻が辰字なら、木が動いて戌に化入する類いはこれである。
墓は多く暗昧なり。 大抵凶爻は墓に入るを要し、吉爻は墓に入るを要しない。《金鎖玄関》に人墓・事墓・鬼墓の別が有り、《天玄賦》に身・世・命が鬼に随いて墓に入るの論が有る。皆大凶の兆である。病に逢えば、九死一生、捕獲に逢えば、深遁して見つけ難く、人物に逢えば、愚蒙として振るわず、失脱に逢えば、暗藏して見えず。墓は即ち滞であり、暗昧不明の象であるからである。卦中の主象が刑を帯びて動いて墓に入る者は、病を占えば必ず死し、訟を占えば獄に入る。
病に化すれば兮ち伤损す。 病は即ち長生に対冲する神である。主象が病爻を化出すれば、凡事損が有る。病を占えば未だ愈えず、物を占えば中らず、薬を占えば効が無く、文書を占えば破綻が有り、行人を占えば未だ帰らず、身命を占えば疾を帯び、婦人を占えば必ず貞潔でなく、容貌を占えば必ず破相が有る。ゆえに伤损と言う。
胎に化すれば兮ち勾连す。 胎は即ち長生中の第十一位の神である。訣に云う:金胎は卯に在り、木胎は酉に在り、火胎は子に在り、水土胎は午に在る。もし主象が胎爻に化入すれば、遅滞して響亮でないことを主る。行人を占うに、主象が胎爻に化入すれば必ず羁绊が有り、未だ動身できない。盗賊及び失脱を占うなら、もし官鬼が胎爻に化入すれば、外勾里连を主る。
凶が長生に化すれば、炽として未だ散ぜず。 主事爻が長生に化入する者は皆吉である。ただ成るのが遅い。ただ事を壊す爻が長生に化入する者は、則ちその禍根が始めて萌し、日ごとに増長し、凶悪の勢は必ず盛んにして已む。病を占えば、福德は長生に化すれば、日ごとに減可し、鬼は長生に化すれば、日ごとに加重し、墓絶の日に至って始めてその勢を殺ぐ。
吉が沐浴に連なれば、敗として成らず。 沐浴は即ち四敗である。訣に云う:金は午に敗れ、木は子に敗れ、火は卯に敗れ、水土は酉に敗る。用爻及び喜ぶ所の爻が敗爻に化入する者は、皆凶である。「敗」の名は即ち成らない義だからである。もし忌爻が此の爻に化入すれば、則ち凶を成さない。あるいは博賭争闘・成謀の事は特に大忌である。私は供膳を占って临の兑卦を得た。応が財爻に臨み世を生じて本は吉であるが、その敗爻に化入するを嫌い、後果たして事を済ますことができなかった。
回頭の我を克するを戒む。 回頭克は用爻が忌爻を化出し、また本爻が克を受けるとも謂う。凡事これに遇えば吉でない。世身もまた宜しくない。金が火に化し、水が土に化する類いである。
徳を反にして人を扶くることを勿れ。 古人に「相生は須く他が我を生ずるを用い、相克は還って我が他を克するを須う」の句が有る。もし主事爻が世身を生合せず、而して反って応爻を生合し、あるいは応爻が世を生ぜずして世が反って応を生ずる者は、皆之を反徳扶人と謂う。凡そ占いにおいて此の等の卦に遇えば、必ず力を費やし艱難することを主る。必ず人の代わりに卦を占めて乃ち順利と為し、事は必ず成り易い。これまた学ぶ者の当に知るべき所である。
悪曜が孤寒なら、日辰の並起を怕る。 刑冲克害して我を害する者を悪殺と為す。大殺・劫殺の類いではない。もし無気を得てまた孤立して助けが無ければ、来って我を傷つけても必ず之に敵することができ、即ち壊れない。ただ日辰に扶并起されるを怕る。則ち必ずその勢に仗って肆として我に毒するだろう。乃ち畏るべきである。
用爻が重畳すれば、墓庫の收藏を喜ぶ。 用爻が重畳して太過なら、もし日辰動爻がこれを損じなければ、必ず墓庫を得て收藏して然る後に望むべし。且つ丁丑日に財を占い、益の萃卦を得た。卦中に両重の財が有り、初九・上九がまた両重の財を化出し、日辰また財であり、合わせて五重の財が有る。本は太過で事を済さない。世上に辰字の財庫が有るを喜び、之を財に庫藏が有りと謂い、財が有ることを主る。余りはこれに仿う。
事は阻隔すれば兮ち発す。 古く云う:世応の当中の両間爻、發動すれば求むる所多く阻隔す。此の二爻が世応の中に居り、彼此の路を隔て、動けば則ち両辺が隔絶するからである。要するに何人が阻节するかを知らば、五類を以て之を推す。父母が動けば乃ち尊長の属である。
心は退悔すれば兮ち世空なり。 事を占って応が世を克せず、日辰に傷が無く、用爻に気が有るのに、世が自ら空に落つるなら、その人は心が堕ち意が懶けで、勇往精進してその事を成すことができない。
卦爻發動すれば、須く交重を見るべし。 凡そ卦が安静でないに遇えば、当に動爻の交重を以て論ずべし。交は未来を主り、重は過去を主る。たとえば逃亡を占い、卦に父動が有れば音信が有ることを主る。もし交爻ならば当に人が報信し、重爻ならば信はすでに先知られている。
動変が比和すれば、当に進退を明らむべし。 動爻が変出する爻と比合すれば、則ち当に進退を以て論ずべし。寅が卯に化するが如きは進神と為し、卯が寅に化するは退神と為す。進は上前を主り、退は落后を主る。たとえば行人を占う:用爻が發動して化進神すれば、幾日も経ずして望む可く、化退神すれば則ち起程しても、また他所へ往き未だ帰らない。また宅を占うが如く、火が二爻に在って動けば、その家の灶が常に遷改すると言うべし。もし化進神すれば必ず前に移り、化退神すれば必ず後に移る。
殺が身を生ずれば将に吉と断ずる勿れ。用が世を克すれば作に凶と看る勿れ。蓋し生中には刑害の両防が有り、而して合処には克伤の一虑が有る。 世身二爻は生合を喜び傷克を悪むこと莫し。もし定めて此の法を執りて推断すれば、則ち膠柱调瑟にしてその変に通達することができない。豈に変易の道であろうか。たとえば日辰動爻が来って世身を生合し、而して日辰動爻が主象の忌神に係れば、則ち我を生合すと雖も、また何の益が有ろうか。况且生合の中に刑克害が有る。ゆえに殺生身の者は吉と為さないのである。また主事爻が動いて来って世身を克すは、乃ち事が来って我を趕すのであり、必ず易く成り易く就く。我が克を見るもまた何の傷があろうか。ゆえに克世の者は凶と為さないと言う。これは乃ち卜易の活法であり、通変の妙理である。学ぶ者の宜しく潜心玩味すべき所である。
刑害は用に臨むべからず。 凡そ刑爻が主象に遇えば必ず不利を主る。事を占えば事成らず、物を占えば物好からず、病を占えば病必ず死し、人を占えば人に疾が有り、婦人を占えば必ず贞潔でなく、文書を占えば必ず破綻が有り、訟を占えば必ず罪責が有る。害爻が主象なら必ず事を壊す。大概刑爻と相類する。化入する者も亦然り。然るにまた須く衰旺を以てその軽重を分かち詳らかにする。
死絶は豈に身に持すべけんや。 死絶二爻が世身主象に臨持すれば必ず不利である。人を占えば難が有り、病を占えば救いが無く、医を占えば効が無く、事を占えば済さない。変動化入する者も亦然り。
動は冲に逢いて事散ず。 冲という字は一概に論ずべからず。空爻が冲に逢えば則ち实となり、動爻が冲に逢えば則ち散じ、また冲脱と謂う。静が冲に逢えば則ち動き、また冲起と謂う。ゆえに凡そ動爻が冲に逢えば、吉も吉を成さず、凶も凶を成さない。
絶は生に逢いて事成る。 大凡そ世身主象が死絶の地に臨み、而して生扶に遇う者は、乃ち凶中有救と為し、大吉の兆である。《天玄賦》に「绝処逢生」の一篇が有り、もし沈潜玩味することができれば、玄妙を自然に採取することができる。然るにいわゆる生とは、日辰のみに定めて断ずるべからず。動爻月建もこれである。たとえば寅日に酉を用い、而して辰戌丑未の爻が動くは、绝処逢生と為す。午日に寅を用い、而して亥子水の爻が動くは、死処逢生である。他の余りは類推する。
もし合住に逢わば、須く冲破して以て功を成すべし。 卦中の用爻が日辰に合住せられ、あるいは両爻が自ら相合住する者は、喜忌を問わず、皆効を見ない。須く合爻を冲破しあるいは克破して、然る後に吉なる者は吉となり、凶なる者は凶となる。此の下は兼ねて期日の法を言う。たとえば用爻が動いて世身を生合すれば、凡事成り易い。もし合住に遇えば則ちまた阻滞し、必ず合爻を冲克破するの日を待って事が始めて成る。
もし休囚に遇わば、必ず生旺にして事を成す。 期日の法は一つに執すべからず。当に円変活法を以て推すべし。庶幾く差誤が無い。たとえば用爻が合わされ住めば、則ち冲破の日を以て断じ、用爻が休囚なら、則ち非生旺能わざればその謀を成す。ゆえに无気は当に旺相の月日を以て断ず。もし用爻が旺相で動かなければ、則ち沖動の月日を以て断じ、用爻が有気で發動すれば、則ち合日を以て断じ、あるいは本日を以て断ず。もし用爻が制を受け、則ち制殺の月日を以て断じ、用爻が時に得て旺動しまた生扶に遇えば、これは太旺と為し、当に墓庫の月日を以て断ず。もし用爻が无気で發動し而して生扶に遇えば、即ち生扶の日を以て断ず。もし用爻が墓に入れば、則ち破墓の月日を以て断ず。もし用爻が空亡なら、則ち沖動の月日を以て断ず。もし用爻が旺空、あるいは空にして冲に逢い、并に逢い、動に逢わば、則ち過旬を以て断ず。もし散事を占えば、また当に用爻の死墓絶日を以て断ず。以上の数節はその大要を撮んで以て後人を提警する。その中の更に玄妙なる理は、学ぶ者が自ら融通活变すべきであり、その軽重強弱を分かちて定め、一途に取るべからず。
速は則ち動いて世を克し、緩は則ち静にして身を生ず。 此れも日辰の法を言う。用爻の動静生合を以て遅速緩急を定む。たとえば行人を占うなら、用爻が發動しあるいは応爻が發動すれば、その人がすでに起程したと言うべし。然るに来って世を生ずれば則ち遲緩であり、世を克すれば則ち速やかに到る。他の余りはこれに仿う。更に当に衰旺を以て論ずべし。
父が亡なえば而して事に頭緒なし。福が隠れれば而して事、情に称わず。 占法に曰く:「卦に父母無ければ事に頭なし、卦に子孫無ければ喜悦せず」。父母は事を主り、子孫は則ち喜庆の神であるからである。ゆえに父が無ければ則ち事に頭緒が無く、福徳が無ければ則ち事が情に称わない。
鬼は禍灾なりと雖も、伏すれば猶お无気なり。 官鬼は禍害と雖も、然るに六爻もまた無くすべからず。ただ静なるを宜とし動くを宜としない。もし官爻が無ければ、則ち諸事无気である。ゆえに《通玄妙论》に「无鬼无气」の論が有り、宜しく細玩すべきである。
子は福徳なりと雖も、多ければ反って功無し。 子孫は福徳と雖も、然るに重畳して多きべからず。多ければ則ち雑であり、雑なれば則ち乱れて専一でない。ゆえに功無しと言う。これは過ぎたるは猶お及ばざるがごとしの意である。
父母を究むれば、推いて体統と為す。官鬼を論ずれば、断じて禍殃と作す。財は乃ち禄神、子は福徳と為す。兄弟交重すれば、必ず謀為多く阻滞あるを主る。 此れ五類の神の大略を概言する。後の巻に分明として自ら断法が有り、細論に及ばない。
卦身が重畳すれば、須く事体の両処に交关するを知るべし。 卦身一爻は万事の本体と為る。もし六爻中に両爻の出現が有れば、必ず鴛鴦の事を求め、あるいは事が両処に関わる。もし兄弟を帯びれば必ず人と同謀する。兄弟が世を克しあるいは官鬼を帯びて發動すれば、必ず人がその事を争謀する。卦身が出現しなければ、事に定向が未だ無く、出現して世に持し、世に合し、世を生ずれば、その事はすでに定まる。出現を宜とし変動を宜としない。動けば則ち変有るを防がねばならない。もし喜神に係れば此を以て論じない。吉神に遇い而して忌爻に化すれば、先ず成り後で敗れるを主り、凶殺に遇い而して吉神に化すれば、先ず難しく後で易しきを主る。もし六爻に卦身が無く而して動爻に化出する者が有れば、即ち此の人が来ってその事を言うのである。子孫なら僧道の類い。卦身が世に持し、あるいは本主人に臨み、あるいは本宮の内卦に在れば、切己の事であり、応爻に臨めば、他人の事である。六爻飛伏ともに卦身が無ければ、その事の根由がいまだ明らかでない。卦身が空亡なら、諸事成り難く、休囚死絶なら、諸事无気である。大抵卦身は事体として作して看るべく、人身として作して看るべからず。もし人を占えば則ちその人の身であり、来占者の身ではない。今の人はもっぱら世と身爻を同じく論じて誤る。ただ世身は生合を喜び傷克を忌むことにおいては同じくないものはない。凡そ身が世を克すれば則ち吉、世が身を克すれば則ち凶。身がもし世を生じ合すれば、諸事成り易く、世が身を生じ合すれば、成り難い。
虎が興りて吉神に遇えば、その吉を害さず。竜が動きて凶曜に逢わば、その凶を掩い難し。玄武は盗贼の事を主るも、必ず官爻たるを要す。朱雀は本口舌の神なれど、然るに須く兄弟たるべし。疾病は大いに天喜を宜とす。もし凶殺に臨まば必ず悲を生じ、出行は最も往亡を怕る。もし吉神に係れば終に利を得。是の故に:吉凶神殺の多端も、何ぞ生克制化の一理に如かんや。
大抵卜易は当に五行六親に執定し、神殺を雑えて乱断すべからず。古の神殺は京房先生の作易に至り、乱りに吉凶星曜を残して後学を迷惑せしめたからである。天喜貴人・往亡大殺の類いは皆これである。今の人はこれを宗とし敬信しない者は無い。《天玄賦》もまた甚だこれを用う。他の者は論ずるに足らない。而してこれを用いない者は、ただ《海底眼》《卜易玄机》《金锁玄関》の三家のみ。然るに神殺が多すぎて豈に悉く弁じ得んや。合わせて六神を以て言えば、その法はもっぱら青竜を吉と為し、白虎を凶と為し、朱雀を見て口舌と為し、玄武を見て即ち盗贼と為し、臨持する所の喜忌を分かたず、概ね所性を以て断ずる。我は以て大いに先天の妙旨を失うと為す。何となれば則ち、白虎動くは固より凶、もしその喜ぶ所の爻に臨み、世身を生扶拱合すれば、則ち何の我を損ずることがあろう。ゆえに凶でもその吉を害さないのである。青竜發動は固より吉、もし忌む所の爻に臨み、主象を刑冲克害すれば、則ち何の事に益しよう。ゆえに吉でもその凶を掩い難いのである。朱雀は口舌を主ると雖も、然るに非兄弟ならば則ち能わず。玄武は盗贼を主ると雖も、もし非官鬼ならば則ち是れではない。六神の権は五行六親に依るからである。また天喜の吉星は、疾病に遇えば、大象凶悪でも死を以て断じない。喜神だからである。もし忌む所の爻に臨んで動けば、我は必ず悲を以てし喜を以てしない。往亡の凶殺は、出行に遇えば、大象吉利でも必ずその行きを阻む。死亡の故である。もし喜ぶ所の爻に臨んで動けば、我は必ず利を以てし害と為さない。神殺の権は軽く五行の権は重いからである。此れによりて観れば:吉に遇えば即ち吉に、凶に逢えば亦た凶となる。此れに係り彼れに係らず。理に験が有り殺に験が無い。何ぞ徒らに幻妄の説を取らんや。然らずんば我は其の紛然と繁拠するを見れば、適々その理を害して我が心を乱し、豈に一中节するあらんや。神殺は無憑であり、徒に断易の多岐と為し、而して生克制化の一理に如かざるを要とするよりはましである。その理を明らかにすることができれば、則ち円神活变し、自ら条理が有りて惑わない。六親を本と為し、六神を末と為す。吉凶神殺に至っては、また末中の末である。必ず之を用いんと欲すれば、則ち当に本を急にし其の末を緩にすべく、ただ六神のみ可なり。然るに六神はただ推决事情に可なるのみであり、休咎得失に至っては、また当に専ら六親を以て主と為すべし。此くの如くすれば則ち本末併せて該め、斯くその妙を失わない。学ぶ者は詳らかにせよ。
呜呼!卜易者は前を知れば則ち易し。 世の人は卜筮に皆古法に泥み、通変を知らず、その道に達する者は鮮し。故に竜虎を以て其の悲喜を推し、水火を以て其の雨晴を断じ、空亡を執作して凶吉と為し、身位を定めて人と論ずる。凡そ此の類いは枚举し難い。我が此の書を作るは、理の長を取り、義の短を捨て、古の幽を阐き、今の失を正す。凡そ庸占俗卜の古法に執迷する者も、莫くは之がために条解せざるはない。志を此の術に有する者は、苟も能く前説を究明せば、自ら通変の道を知らん。其の易に於いて何かあらんや。ゆえに卜易者は前を知れば則ち易しと言う。
占を求むる者は后を鉴みて則ち灵なり。 推占者は固より通変すべきであり、而して占を求むる者もまた卜を求むるの道を知らざるべからず。「后」とは即ち誠心である。
筮は必ず誠心たるべし。 聖人は易を作り、幽かに神明を賛し、その道を以て乾坤に合す。ゆえに凡そ卜筮は必ず真诚敬謹にして、専心にこれを求むれば、則ち吉凶禍福自ら験ないことは無い。今の人は卜を求むるに、多く科頭赤足・短衫露身、さらには香を焚かず手を洗わざるが有る。此くの如く忽略して神明の感格を求めんと欲すれども、未だこれ有らざるなり。神明の格たざるに、吉凶の応を求めんと欲す。これも未だ有らざるなり。可不慎や。
子日を仿うことを何ぞや。 陰陽暦書の中に「子の日は卜を問うべからず」の説が有る。故に今の人は多く此の日を忌む。我は以て:吉凶の応は皆神明に感ずるのであり、神明は往くところ無く在らず、日なくして格すべからざるはない。能くその神を格すれば自ら験ないことはない。ゆえに凡そ卜筮は人の誠不誠に在り、日の子と非子とに在らざるなり。且つ其の説にまた「辰の日は哭泣すべからず」の忌みが有る。もし辰日に丧に臨めば、也可以て弔客に対して笑うか。これは信ずるに足らないこと、明らかである。
且つ丙子日に、袁柳庄が脱役の事を卜し、姤卦を得て安静だった。鬼が応爻に臨むに日辰に衝動せられ、世が六害を受け、果たして脱し難きに応じた。また谈朝辅が訴訟を卜し、蒙の未济卦を得た。官鬼が空亡で、果たして成らざるに応じた。また戊子日に周焚松が官訟を卜し、离の贲卦を得た。日辰が官鬼を扶起して世爻を冲克し、財爻もまた動き、これは必ず鬼を助けて身を傷つける。果たして婦人に執罪せられた。また丙子日に倭寇を卜し、噬嗑卦を得た。鬼爻が衰静で、果たして来たらないに応じた。ただ日辰が父爻の六害を帯び、乃ち風雨淋漓の苦しみを受けた。以上の数占は皆子日に係り、未だ嘗て少しも誤らなかった。果たして暦家の言の如くなら、何ぞその事が乃ち全て応じたのか。ゆえに凡そ占卜は誠を秉るを貴び、日の選択を貴ばない。
以上の全篇は総説断易の法にして、通章の大旨である。此れを知らざれば諸事決し難し。志を是に有する者は當に先ず此の篇を観るべし。もし能く沈潜反覆して、熟読詳味すれば、此の理即ち明らかになり、則ち事至り物来たれば、固より刃を迎えて解かん。其の易に於いて何かあらんや。
天道は幽深にして測り難く、豈に旱涝を空揣すべけんや。易爻は微妙にして、自ら陰晴を験証す。当に父母と妻财を推究すべく、水火二爻に執着する勿れ。
天時の占いは、《卜筮元龟》以下、皆水火を以て晴雨の主と為し、六親制化を推究せず。これは執一不通の論である。ただ《海底眼》に「天相陰晴父母推」の説が有り、深く旨を得たり。然るにまた引いて発せず。ゆえに学ぶ者は多く古法に泥みてその理を求めず、良くも嘆ずべきである。且つ古人が水爻を以て雨と為すは、その言うところ旺動は骤雨、休囚は微雨なり。然るに水は冬に居て旺なり。則ち雨豈に秋冬にのみ独り骤やかにして春夏に軽微ならんや。此れを知れば則ちその説は攻めずして自ら破れる。故に凡そ天時を占うには、當に父母妻财を見るべく、水火を論ずる勿れ。
妻财發動すれば、八方仰ぐこと咸な晴光。父母興隆すれば、四海尽く雨泽に沾う。 天を占うに水を以て雨と為さず父母を以て雨と為すは、父母は天と為り、天が変ずれば則ち雨だからである。妻财は則ち父母の忌爻であり、動けば則ち雨神を克制する。ゆえに晴を主る。卦中に父動が有れば雨を主り、財動が有れば晴を主る。卦に父母が無く、財爻また空なら、必ず雨が無く、卦に妻财が無く、父爻また空なら、必ず晴れない。
応は乃ち太虚、空に逢いて雨晴擬し難し。 天時を占うは人事を占うと一般である。人事は応空ならば成り難く、天時は応空ならば望み難い。久晴で雨を占えば則ち雨が無く、久雨で晴を占えば則ち晴れない。もし卦中に雨爻が動き而してその応が空なら、また遅緩を主り、世空ならば来たるのが速い。世応俱に空なれば、雨晴擬し難く、須く父母妻财及び日辰を詳らかにして断ずべし。
世は乃ち大塊、克を受くれば則ち天変非常なり。 応は天と為し、万物の体。世は地と為し、万物の主。もし世が動爻の刑克を受ければ、必ず非常の変が有る。雨爻が刑克すれば必ず悪雨であり、風爻が刑克すれば必ず悪風に遭う。また財が火鬼に化し世爻を刑克するが如きは、もし夏月に卜卦すれば必ず酷暑である。卦に子孫及び父母の動くが無ければ、則ち迅雷驚電である。
日辰は一日の陰晴を主る。 日辰は乃ち一日陰晴の主である。《金鎖玄関》の太陽の論の如く作すべからず。もし日辰が兄弟なら、その日に必ず風雲が有り、子孫なら、その日に必ず霞彩が有り、官鬼なら、その日に必ず陰晦である。もし動爻が日辰を刑克する者も亦然り。財爻が動いて克すれば則ち晴れ、父爻が動いて克すれば則ち雨。卦中の動爻が日辰に克制される者は、その象必ず変わらない。もし父母が動き而して日辰がこれを生扶すれば則ち大雨、妻财が動き而して日辰がこれを生扶すれば則ち烈日である。
子孫は九天の日月を管す。 陽宮の子孫は日と為し、陰宮の子孫は月と為す。旺なれば則ち皎潔、衰うれば則ち暗淡、空伏すれば則ち晴れても蒙蔽せられる。子が子に化すれば、日照らして霞明らか、陰に属すれば則ち月明星燦たり。墓絶を化出すれば、始めは明らかに終には暗晦と成る。
もし論ずるに風雲なら、全く兄弟に凭る。 風雲は兄弟爻を以て論ずる。旺動すれば則ち風高く雲密なり、死絶すれば則ち雲淡く風軽し。子孫を化出すれば則ち清風彩雲、官鬼を化出すれば則ち頑雲悪風。
要するに雷電を知らば、ただ官爻を看る。 官鬼は雷電を主り、動けば則ち必ず雷声が有る。旺相ならば霹靂驚雷、衰弱ならば雲中虚閃。卦に両鬼が皆動けば雷電の交作を主り、鬼化鬼も亦然り。鬼化財、あるいは卦に父母が無くんば、雷は有れども雨は無い。
更に四時を随いて推詳し、須く五行を配して参决すべし。 父母は雨を主り、妻财は晴を主る。四時易えず。その子孫・官鬼・兄弟は当に時を随いて推究すべく、一に執すべからず。
凡そ天時を占うには、固より水火を以て主と為すべからず。もし五類の臨む所、亦た凭りて參究すべきである。父母爻は四時雨を主る。もし金水に臨めば、雨は乃ち未だ止まず、火土に臨めば、雨は有れども久しからず、ただ土に臨めば則ち雨は止んでも雲は散ぜず、木に臨めば則ち風有り雨有りの象である。妻财爻は四時晴を主る。金に臨めば必ず烟雾が有り、水に臨めば必ず朝露が有り、あるいは晴れても久しからず、父爻を化出すれば反って雨を主り、木に臨めば晴れて風有り、土に臨めば晴れて雲有り、火に臨めば日、中天に麗し。兄弟爻が木に臨めば四時風を主り、土に臨めば四時雲を主り、火に臨めば風雲とも有り、兄化兄も亦然り、金に臨めば風砂が有り、水に臨めば濃雲である。また夏月の新秋に火兄に遇えば大熱を主り、冬月の初春に水兄に遇えば大寒を主る。子孫爻が金に臨めば四時皆星月と為り、陽に属すれば則ち冬と正月は氷霜と為り、夏秋は白云と為り、木に臨めば二三月は游丝と為り、余月は皆日影日色と為り、水に臨めば正月と冬季は氷雹雪霜と為り、夏秋と二三月は朝露と為り、火に臨めば四時皆日と為り、土に臨めば夏秋は巧云と為り、二三月は霞と為り、冬月は日と為る。官鬼爻が火及び未戌二土に臨めば電と為し、余りは皆雷と断ずる。正月に鬼が動いて父を化しあるいは父爻と同じく発すれば、春雪を主る——春雪は乃ち物を殺す雪にして瑞雪ではない。もし二月の春分の後、八月の秋分の前に見れば、皆雷を以て断ずる。春分前に雷声の未だ発せざるは、則ち湿雲帯雨の象にして雷ではない。秋分後に雷声の既に収まれるは、鬼が動くならば必ず狂风が木を拔き、林間震响する悪勢が有る。雷声の既に収まりたる後と未だ発せざる前、もし鬼が三刑六害を帯びて旺動し来って世を克せば、雷は非常の変に応じ、冬月と雖も震骇百里の象が有る。
晴なるにまたは官に逢わば、烟と為り霧と為る。 卦に晴兆を得て、鬼もまた動く者は、必ず濃烟重霧、あるいは悪風、あるいは陰晦が有り、冬はまたは大寒、夏はまたは大熱、あるいは日月薄食の変が有る。必ず风和日丽・天晴月皎の侯ではない。
雨にして福に遇わば、電と為り虹と為る。 卦に雨兆を得て、子孫もまた動く者は、非ずんば則ち閃電が有り、則ち虹彩が有る。子孫は彩色を主り、虹と電もその象が有るから、類を以て推す。もし日月霞彩に執定すれば則ち膠柱调瑟である。
応が子孫に値すれば、碧落に瑕庛の半点なし。 凡そ晴卦に遇うて、応が子孫に臨んで動く者は、その日に必ず皎潔である。あるいは財が応に臨んで動いて子孫を化出するも亦然り。応は天と為し、子孫は清光皎潔の神だからである。
世が土鬼に臨めば、黄沙多く散漫して千村に及ぶ。 晴卦の中に世が土鬼に臨んで發動し、あるいは土鬼が動いて来って世身を冲克する者は、乃ち沙が天に落つるのであり、兄弟が土鬼に化するも亦然り。秋冬に見れば多く陰晦を主る。あるいは子孫から化出すれば、当に云奔鉄骑の象が有る。
三合して財と成れば、雨を問うに那んぞ卦に入るに堪えん。 卦に三合成局が有れば、五類に依りて之を推す。財局を成せば霞彩が有り、鬼局を成せば雷電が有る。久晴で雨を占い、卦に三合財局が遇えば必然的に雨が無く、久雨で晴を占い、卦に三合父局が遇えばまた晴れないことを主る。たとえば五月甲申日に晴を占い随の咸卦を得た。辰子両爻が俱に動き、日辰申字と正に父局を合成し、雨が果たして止まなかった。
五乡が父に連なれば、晴を求むるに怪殺の空に臨むを殺す。 五乡は即ち財官父兄子。五類の中でただ父母のみ雨と為る。此の爻が空亡か、あるいは休囚不動なら、雨は未だ望むべからず。もし動爻が父母を化出すれば則ち雨が有ることを主り、財爻を化出すれば則ち晴を主る。
財が鬼に化すれば、陰晴未だ定まらず。 財は晴明を主り、鬼は陰晦を主る。故に財化鬼・鬼化財、あるいは鬼財ともに動けば、必ず陰晴未定の象、あるいは先ず陰り後に晴れ、先ず晴れ後に陰る象を主る。卦に子孫が無く、財が反って鬼を助ければ、必ず晴れない。
父が兄に化すれば、風雨も靡え常なし。 父は雨を主り、兄は風を主る。両爻相化しあるいは俱に發動すれば、皆風雨交作を主る。凡そ先後の論ずれば、当に動きを以て先と為し、変を以て後と為すべし。俱に動けば則ち旺を以て先と為し、衰を以て後と為す。
母が子孫に化すれば、雨后長虹は蝃蝀に垂れ、弟が福徳に連なれば、雲中明月は蟾蜍に出ず。 日月虹霓は皆子孫に属する。もし父爻がこれを化出すれば、必然的に雨后虹が見え、兄爻がこれを化出すれば則ち雲中に日が漏れる。冬月に兄化子は雪片の風に随うことであり、夏秋は風が晴雲を巻く。陰に属すれば則ち風清く月朗らかであり、三春に陽に属すれば則ち风和らぎ日暖かい。父が旺んで財が衰え、而して兄が動いて子を化出せば、当に雲中の閃電を推すべく、更に宜しく細究すべし。
父が月建を持せば、必然的に陰雨旬に連なる。 卦中の六親は皆月建に臨むを宜としない。ただ子孫一爻のみこれに遇うを吉とする。他の者がこれに臨めば、父ならば必ず久雨を主り、財ならば必ず久晴を主る。父に臨み水に化すれば則ち涝え、財に臨み火に化すれば則ち旱す。水火に非ずして世爻を刑克するも亦然り。
兄が長生に坐せば、擬して定む狂风の日に累なる。 長生の神は、凡事の発萌の始めから帝旺に至るまで、然る後に衰死する。故に長生に遇えば卒に止息し難い。父がこれに逢えば雨は必ず朝に連なり、兄がこれに逢えば風は必ず日に累なり、官がこれに逢えば陰雲散らず、財がこれに逢えば雨は未だ望むべからず。須く墓絶の日に至って然る後に雨は止み、風は息み、雲は開け、陰は霁る。化出するも亦然り。
父財が助無ければ、旱潦常が有り。 官鬼が空伏し、父母が无気で而して財爻が旺動する者は必ず旱す。子孫が空伏し、妻财が无気で而して父爻が旺動する者は必ず涝う。凡そ此の象に遇わば、最も日月動爻が来って生扶合并するを怕る。則ち潦えば必ず浸没に至り、旱すれば必ず枯槁に至る。父財二爻が或いは旺動でも制伏が有り、あるいは死墓絶地に居てまた扶助が無ければ、旱にも日が有り、潦にも時が有り、必ず害と為さない。
福徳が刑を帯びれば、日月必ず食す。 子孫が刑を帯びて動き鬼に化し、あるいは官鬼が動いて来って刑害し、あるいは父が螣蛇を帯びて來って克すれば、皆日月の食するを主る。陽爻は日、陰爻は月。たとえば八月庚申日に中秋の月を占い、家人の观卦を得て、果たして大雨に応じた。
雨は妻位の逢冲を嫌う。 雨を占うには財爻が静なるを要す。もし日辰に衝動されれば、父母が暗自に傷つき、雨は未だ望むべからず。父がまたは發動しても雨もまた多くなく、然らずんば当日必ず雨が無い。財爻の墓絶日に至って方可ち雨が有る。もし父爻が安静で冲に逢えば則ち雨が有る。
晴は父爻の入墓を利とす。 墓は晦滞を主る。父爻が動いて入れば即ち雨意だが、終に沾濡しない。財爻が動いて入るも陰晴気候であり、入墓も亦然り。たとえば五月丁丑日に晴を占い屯の无妄卦を得た。父母が動くと雖も墓爻に坐し、果たして晴れて陰滞するに応じた。
子が伏し財が飛べば、檐下に曝夫すら猶お抑鬱す。 大抵晴を占うには財を以て主と為す。もし徒らに財が有るのみで子孫が無く、あるいは空地に居りまた変じて弱れば、此の日に陰晴の象が有る。財爻はただ晴を主り日を主らないからである。子孫が出現して空でないを得、あるいは發動し、あるいは旺相し、あるいは生扶に遇い、あるいは冲并に逢えば、然る後に日が有る。況して子孫が無ければ則ち財は生涯を絶つ。官鬼が専権すれば必ず久晴の兆ではない。
父が衰え官が旺んならば、門前行客も尚お趑趄す。 雨を占うには父を以て主と為し、休囚死絶ならば直ちに望むべからず。もし官爻が当権旺動して父母を生扶すれば、また雨が有ることを主る。ただ父が空地に居り、あるいは日辰制伏の郷に在るを忌む。仍お雨が有らざるなり。然るにまた必ず湿雲が雨を載せて凝滞して散ぜざるの象が有る。
福が応爻に合し木動交すれば、而して游丝野に漫る。 子孫は乃ち旷达の神である。もし木に臨んで動き応を合し、あるいは応上に在って世身を生合すれば、必ず风和日暖・游丝飘荡の天である。夏月は熏风解愠、秋月は风清月朗、冬月は玉屑呈祥。水に属すれば露珠と言うべし。
鬼が身位を冲し金星会すれば、而して阴雾迷空す。 卦が晴にして鬼が金水爻に臨んで動き来って世身を冲克し、あるいは卦身に臨んで応爻を冲克し、あるいは即ち応上に臨んで發動すれば、皆濃烟重霧が蔽塞郊野する象を主る。父母が動けば則ち雷鳴を主り、煙霧を以てすべからず。
卦が暗冲に値すれば、空なりと雖も望み有り。 雨を占えば父が空なるを怕り、晴を占えば財が空なるを怕る。二者は皆成望が無い。もし日辰がこれを冲せば則ち冲空して空でなく、此の一日を過ぐれば自ら成望が有る。日期を定めんと欲すればまた冲日冲時を以て断ず。
爻が合住に逢わば、動くと雖も功無し。 父が動けば雨が有り、財が動けば須く晴れ、理も固より然り。もし日辰動爻に合わされ住めば、之を合住と名づけ、動くと雖も静に依りて看る。財爻を合住すれば晴れず、父爻を合住すれば雨がない。大概は密雲不雨の象である。辛丑の秋、私は江东に寓居して帰らんと欲し、飓風の大作に値い、丁亥日に困の震卦を卜じて得た。兄弟父母が俱に動いて応爻を合住し、果たして当日辰時に止息した。
父を合し鬼が冲開すれば、雷有れば則ち雨。 父母が合住せらるれば本雨を主らない。もし鬼動に遇って合爻を冲破すれば、當に雨まさに降らんとして未だ降らず、必ず雷震を待って然る後に雨が有る。冲爻が兄弟なら風発すれば則ち雨、冲爻が子孫なら閃電すれば則ち雨。日辰冲克も同じく断ず。
財を合し兄が克破すれば、風無ければ晴れず。 財爻が合住せられば元より晴明を主らない。もし卦に兄動が有って合爻を克破し、あるいは日辰が兄で冲存破すれば、則ち必ず風起を待って然る後に晴れる。風が無ければ晴れない。たとえば辛未日に晴を占い損の小畜卦を得た。財が合わされ住むが、日辰が兄を帯びて合爻を冲破するを喜び、果たして風発して晴るるに応じた。
坎巽互交すれば、此の日雪花六出に飛ぶ。 八卦の属象:乾は天と為り晴と為り、坤は地と為り陰と為り、坎は水と為り雨雪冰雹と為り、离は太陽と為り霞電と為り、艮は雲と為り、震は雷と為り、巽は風と為り、兌は則ち星月霧露である。もし冬月に卦を卜して坎化巽、あるいは巽変坎に遇えば、必ず風雪飘扬の象が有る。父兄が交変して子孫も兼動する者も亦然り。父が動き而して子が子に化するならば、則ち雪月交輝の象である。
陰陽各半なれば、今朝霖雨三农を慰む。 雨は乃ち陰陽の象が郁結して成る。故に古人は「陰陽和して然る後に雨泽降る」の説が有る。凡そ天時を占いて陰陽相半の卦を得れば、必然的に雨が有る。然るにまた必ず財父を兼看すべきである。純陽卦は安静なら、雨を占えども雨は降らず、晴を占えば必ず晴れる。動けば則ち雨を主る。純陰卦は安静なら、晴を占えども晴れず、雨を占えば必ず雨が降る。動けば則ち晴を主る。陽動すれば則ち陰に変じ、陰動すれば則ち陽に変ずるからである。純陰卦が動いて父爻を出せば終に雨が有り、純陽卦が動いて財爻を出せば終に晴れる。
兄弟の木興りて巽风に係れば、而して冯夷は何ぞ其の悪を肆にせん。 天を占いて兄弟が木に属し巽宮に乗り旺動して来って世爻を刑克するに遇わば、当に飓风の患いが有る。更に父爻と同じく発すれば必ず風雨と成る。もし官に化すれば定然り物を傷つける。水を化出せば風雨兼作する。火土を化出せばただ雲のみである。
妻财の火動き乾阳に属すれば、而して旱魃胡んぞ其の兇を行う。 財が火に臨んで動き、あるいは火から化し、あるいは火爻に化し、あるいは乾卦に変入し、また月建日辰動爻の生扶合助に遇う者は、必ず大旱を主る。もし六爻に水が無く、父母が死絶で、あるいは父と水爻が空に在り、而して財福が当権旺動するも亦是れである。
六龙御天するは、只だ震卦に蛇興るを為す。 震卦はまた龍の象と為す。もし青竜螣蛇が此の宮に動く者が有れば、必ず龍の現れることが有る。龍蛇に非ずと雖も辰巳爻の上に旺動する者も、また龍有りを主る。父から化出すれば、先に雨が有り後に龍が現れ、父爻を化出すれば、先に龍が有り後に雨。父爻が安静か空伏すれば、龍は現ると雖も雨が無い。財に化するも亦然り。蛇竜辰巳等の爻が鬼に臨んで動く者は、龍にあらず、乃ち電掣金蛇である。
五雷電を駆るは、蓋し離宮に鬼発するに缘る。 電は乃ち雷の光である。声が有るを雷と曰い、声が無きを電と曰う。もし鬼が離宮に在って動けば、当に五雷駆電を以て断ず。離は彩色の象が有るからである。火鬼も亦然り。金化火・火化金は、雷電交作。凡そ鬼爻が旺相なれば雷声必ず烈く、休囚なればその雷やや軽く、世を克し金に臨みまたは自刑を帯びれば、旺相ならざるも声も亦た驚駭す。土に属し无気ならば隠隠として軽雷である。《金鎖玄関》及び《卜易玄机》は鬼が金火に臨むを皆電と断ずる。我は以て:金は乃ち有声の象であり、火は則ち然り、金は何の理かあらんや。故に敢えて取らない。
土星が父に依れば、云行雨施の天。木德が身に扶れば、日暖风和の景。 土は雲を主り、父は雨を主る。故に土が父に臨んで動けば云行雨施の象が有る。木は風を主り、財は晴を主る。故に木が財に臨んで動けば日暖风和の景が有る。変化する者も亦然り。
霧多く烟多ければ、爻上に財官ともに動く。 財が動けば本晴である。もし鬼爻も亦た動き、あるいは日辰が鬼を帯びて世爻を持克すれば、必ず先ず烟雾が有り後に開晴する。官が旺んで財が衰うれば、大霧重きこと細雨の如く、鬼が衰え財が旺んならば、烟迷すること暫くにして開晴す。
身が同人に値すれば、晴なりと雖も日轮耀きを含む。世が福徳を持せば、雨なりと雖も雷鼓声を藏す。 凡そ天時を卜する、世爻によって克せらるる者は必ず此の象が無い。たとえば兄弟が世を持てば則ち財爻を克し、財が旺相なら亦た皎潔の天氣ではない。子孫が世を持てば則ち官鬼を克し、官が發動すれば雨なりと雖も必ず雷声が無い。世が安静かあるいは空亡に落つる者は皆断ずるなかれ。日辰に克制される者はその象必然的にそうなる。
父が空で財が伏せば、須く輔爻を究むべし。 雨を占えば父を主と為し、鬼を輔と為し、晴を占えば財を主と為し、子を輔と為す。もし財父が皆空か、俱に出現せず、あるいは一が空で一が伏ならば、則ち雨晴定め難く、須く輔爻の衰旺動静を究め、庶幾く推决すべし。鬼爻が旺動し、日月動爻が来ってまた生合すれば、亦た雨有りを主る。子孫が旺動し、鬼爻が墓絶ならば、亦た晴を主る。あるいは官と子が俱に静かなら、則ち日辰の生合冲并する者が有れば急と為す。たとえば五月甲戌日に久晴で雨を占い屯卦を得た。財が出現せず、父爻が衰空で、同じく雨晴定め難きの象である。日辰が冲并するを喜び、卦中の土鬼が暗動し、果たして雨有るに応じた。ただ鬼が土爻に臨み水を克するゆえ、雨も亦た多くない。
日を克して期を取るには、当に占法を明らむべし。 雨を占えば父爻を見、晴を占えば財爻を見、風を占えば兄爻を見る。久晴で雨を占う:父爻が衰弱なら、生旺の日に有り。父爻が安静なら、沖動の日に有り。父が發動なら、合值の日に有り。月建が財なら、出月して断ず。卦に父母が無く、財爻の墓絶の日に有り。久雨で晴を占う:財爻が衰弱なら、生旺の日に止む。日辰が財なら、当日即ち止む。卦に財爻が無く、父母の墓絶の日に止む。月建が父なら、出月して止む。日辰が父なら、財が有気でも当日必ず止む能わず。もし衰爻に扶起する者が有れば、即ち扶爻を以て断ず。一日の陰晴を占うが如きは、当に時刻を以て期を取るべし。
その詳を尽くさんと要すれば、陰陽を別ちて昼夜に分かつ。 陰陽の分かちは当に卦宮を以て取るべく、爻象を以て論ずる勿れ。陽は晝を以て言い、陰は夜を以て言う。あるいは曰う:外卦の陽爻は午前を以て断じ、内卦の陽爻は午後を以て断じ、外卦の陰爻は上半夜を以て断じ、内卦の陰爻は下半夜を以て断ず。また陽化陰は晝に興り夜に作し、陰化陽は夜に興り晝に作す。また曰う:陽宮の陽爻は午前に推し、陽宮の陰爻は午後に推す。陰宮もこれに仿う。
その細を推さんと欲せば、衰旺を明らかにして重軽を定む。 衰旺は四時を以て言う。旺なれば則ち重く、衰うれば則ち軽し。有気にしてまた生旺の地に臨む者は愈々甚だしく、无気にしてまた墓絶の地に臨む者は尤も微かである。旺変じて衰うれば先ず重く後に軽く、衰変じて旺んなれば先ず軽く後に重し。
能く易道の精微を窮め尽くせば、自然に天机と符う。
陰晴寒暑は天道の常なるもの。水旱兵灾は年时の変なるもの。一年中の禍福を判断せんと欲すれば、須く八掛中の吉凶を審察すべし。
いわゆる年時とは、即ち一年中四時の事である。遠くは則ち国家、近くは則ち官府、大ければ則ち天道、小さければ則ち人物、皆六爻の内に在り。凡そこれに推及ぶには、必ず仔细であるべく、人事の一端の易きに比すべからず。学ぶ者は宜しく用心すべし。
初爻は万物を観、莫くは死绝の乡に居るべからず。 万物は初爻に属す。財福に臨めば吉にして、鬼殺に臨めば凶。生旺有気ならば、五穀豊登し六畜旺興す。空亡墓絶ならば則ち六畜多く災いあり、五穀欠收す。克を受くるも亦然り。
次に群黎を察し、旺生の地にあるを喜ぶ。 二爻は人民の位と為す。子孫に遇えば四時安楽。官鬼に逢えば太岁多く災いあり、發動して世を克すれば民多く盗を為す。自空化空すれば民多く暴死す。空動して応爻を生合すれば民多く外郡に遷徙す。火鬼が父に化すれば、小児多く痘疹を出す。
三は府県官僚を言い、兄弟ならば則ち征科必ず迫る。 三爻は陽に属すれば府官を以て断じ、陰に属すれば県官を以て断じ、陰土に属すれば府県の僚佐官を以て断ず。三爻が世に臨みあるいは本宮なら、本県の官を以て断ず。故無くして自空なれば、県に必ず缺任する。空に逢ひ而して応上の鬼に冲せらるれば、必ず外郡の官が政を摄する有り。發動して空に逢わば、まさに印を辞せんとす。進神に化すれば升擢の喜びが有り、退神に化すれば降谪の憂いが有る。世爻あるいは初二爻を生合すれば、仁民愛物の心が有り、刑克すれば則ち小民を克制し、良吏ではない。子孫に臨めば清廉正直。官鬼に臨めば酷毒にして刑を好む。兄弟に臨めば贪暴にして恥を知らない。兄動して世を克し而して五爻あるいは歳君を生合すれば、必ずその年に官府の征科が急迫することを主る。
四は朝廷宰相を論じ、身を冲すれば則ち巡警无私なり。 三公九卿・上司官は皆四爻に在り。もし能く世爻二爻を生合すれば、必ず憂民の官が朝に在る。五爻を生合し二爻を刑克すれば、朝廷は皆阿諛の臣である。發動は巡官を以て断ず。子孫に臨めば正直无私。世に持し生合すれば必ず能く民の為に害を除く。兄動して財に化し世と刑克すれば、その年に当に旧欠を征索する官が来たる。もし応上に臨みあるいは化空亡すれば、必ず我が境界に入らない。もしその身と相冲すれば、四境を遍巡する。もし鬼化鬼に遇えば、一年に官が両度來たり、あるいは両員の官が来たる。
五は君上の爻と為す。 五爻は天子の位と為す。最も動いて来って世爻を刑克するを宜としない。その年必ず朝廷の克剥を受ける。もし財福に臨んで世爻を生合すれば、必ず君恩が有る。父母を化出すれば當に赦宥が有る。空動は名有りて実無し。あるいは世爻を生合すと雖も三四爻に克制合住せらるる者は、縱え君恩が有っても官府が隠瞒して百姓の下に及ぼし得ない。制爻が衰死するも亦た半ば侵捺を主る。五爻自空なら、その年に天子に崩伤の憂いが有る。子孫を化出して回頭克制すれば、必ず太子の摄位を主る。五爻空動して身岁を冲せば、巡狩していた外に事を出すが有る。四爻が五爻を制克すれば、当に奸臣の国を専らにするが有る。四爻旺で五爻衰なら、不軌を謀るを恐れる。
六は昊天の位と為す。 六爻は天と為す。もし空なら、その年に必ず多く怪異の事が有る。天には空脱の理がないからである。ゆえに変異が有ることを主る。子孫ならば日食星陨と為す。もし兄動に遇えば、また驚怪不常の変を主り、此れは空亡の異よりも尤も甚だしい。
応も亦た天と為し、世を克すれば則ち天心順わず。世は還た地と為し、空に逢えば則ち人物多く灾いあり。 応爻はまた外郡と作して看、世爻はまた本境と作して看る。
太岁が兄に逢いて旺に乗ずれば、温州の大飓有り。 太岁は乃ち一年の主星であり、ただ子孫に遇うを吉と為すのみ。其他は皆利とする所にあらず。たとえば兄に臨みて出現変動すれば、その年必ず多くの悪風が有り、旺に乗じて世を克せば飓风の灾いが有る。もし金水に属し、あるいは父母に化し、あるいは父爻と同じく発すれば、風水の禍は必ず免れない。兄化すれば一年雨を為す。
流年が鬼に値して刑を帯びれば、汉寝の轰雷と成る。 流年は即ち太岁である。もし官鬼に臨んで發動すれば、その年必ず悪雷が多く、刑を帯びて世を克すれば必ず人物を傷つける。六親の中で至凶なものは官鬼に如くはない。六爻がこれに遇えば皆その禍に遭う。初爻がこれに遇えば物に利あらず、二爻がこれに遇えば人安ぜず。六爻に官が無く、年月の帯びざる所なら、方に大吉と為す。縦え旱涝の年灾いが有っても、必ず大害には至らない。出現して空に逢い、あるいは衰絶不动なら、亦た差し支えない。
妻财發動すれば、旱は成汤の日に若く、父母交重すれば、潦は尧帝の時に如し。 財が太岁に臨めば、その年の雨水は必ず周遍しない。更に火爻に臨みあるいは火にか化しその生扶なら、而して父爻が衰弱する者は、必ず亢旱を主る。もし父が太岁を持せば、その年の雨水必ず多く、更に水爻に化しまた生旺の地に臨み、而して財爻が空伏无気ならば、必ず大水を主る。世を克さざれば則ち五穀損じない。もしただ年時の水旱を占うだけなら、必ずしも太岁に拘らず、ただ財父を見るべし。動き有れば動きを以て勝と為し、動かなければ旺を以て勝と為す。世を克せば則ち畏るべし。
猛烈の火官は回禄にして、兴灾して熙応にす。 鬼が乾宮あるいは六爻の上に在って動けば、当に雷を以て断じ、他の餘りは乱りに言うべからず。たとえば卦中に火鬼が動けば、その年に火災が有る。もし世と干渉せず而して応爻と克冲すれば、乃ち外郡の被灾であり本境と干渉しない。
汪洋の水鬼は玄冥にして、作祸して江淮にす。 水鬼が發動すれば、その年必ず水災が有る。外卦に在り、あるいは父母に化し、あるいは父母を沖動すれば、雨の水が没す。内卦に在れば河决海翻である。世を克せざれば溢ると雖も事無し。たとえば戊午年正月辛亥日に年時を卜じ、蒙の中孚卦を得た。水鬼と応上の父爻が俱に動いて世爻を傷克し、妻财また伏し、その年果たして風雨連月に応じ、田中に水が溢れ、五穀淹腐して尽きんとす。
尤も金に属すを怕り、四海干戈鼎の沸くが如し。 金鬼が發動すれば、その年必ず静かでない。金は乃ち兵象だからである。四五爻上にあれば大臣の謀叛であり、応爻を冲克し五爻を生合すれば朝廷の征討である。外卦に在りまた他宮に属すれば、夷狄の中華を侵犯である。鬼化鬼あるいは両鬼俱に動けば、必ず一処の作乱のみではない。卦身がこれに逢えば四海、皆然り。太岁がこれに逢えば一年静かでない。空動は虚であり、あるいは化空絶・化败病・化回頭克、あるいは月建日辰動爻に克制されれば、縦え反乱するも終に必ず敗亡する。休囚發動すれば、不过強梁の盗贼である。甲寅正月庚申日に倭乱を卜じ、困の大过卦を得た。六三午火鬼が動いて酉金兄弟を化出し、刑を帯びて克害し、その年果たして倭贼大乱に応じた。火は焼を主り金は殺を主り、兄はまた劫財。ゆえにその年の劫焼杀伤の計り知れざることとなった。
更に土に値すを嫌い、千门疫疠符の同じきが若し。 土鬼が發動すれば、その年多く疫病が有る。生旺は甚だしく、休囚は稍や可し。艮宮に在って動けば瘴気も亦た重い。世を克すれば人多く疫に死し、世が克すれば妨げない。鬼が白虎を帯びるも亦た疫病の兆である。
朱雀に逢い而して福爻に化すれば、財動すれば則ち旱蝗相継ぐ。 鬼が朱雀を帯びて動き子孫に化して身世を刑克すれば、蝗虫の灾いが有ることを主る。朱雀は飛ぶことができ、子孫はまた禽虫の属だからである。財が太岁に臨めば、非朱炊と雖も、もし子を生气爻上に化せば亦然り。更に財爻もまた動き而して制伏が無い者に遇えば、必ず旱蝗相継ぐの岁を主る。
勾陈に遇い而して世位に加われば、兄興れば則ち饥馑相仍ぶ。 勾陈は職、専ら田土と為す。官鬼がこれに逢えば必ず大有の年ではない。世を持し世を克せば必然的に歉收。財が兄に化しあるいは鬼と俱に動けば、則是れ饥馑の年である。もし財空福绝あるいは福空财绝なら、皆是れ饥岁である。
莽が興り盗が起るは、玄武の官に当たるに由る。 鬼に玄武を加えて動き世爻を克すれば、その年必ず盗贼が多い。陰に属すれば穿窬の小人にして梁上の君子、陽に属すれば強梁の伙盗である。もし土に臨みあるいは土に化して世を克せば、必ず盗贼蜂起を主る。金を化出して岁君あるいは五爻を冲克する者は、今は盗贼と雖も、終に必ず干戈を謀動らかし四海を擾乱して上を犯さんとする。
宋の殄异多きは、螣蛇の世に御するが因なり。 螣蛇は乃ち妖怪の神である。六爻上に在って動けば、非鬼と雖も、必ず大変異が有ることを主る。鬼が六爻上に在って動けば、非螣蛇と雖も、亦た大変を主る。乾宮に在りあるいは乾卦に化入する者も亦然り。六爻に在らず乾宮に落ちず、而して鬼が螣蛇を帯びて發動すれば、則ち世間に変異奇怪が有る。
もし乾宫に在らば、天鼓両鸣して元末にす。 螣蛇が動いて官鬼に臨む。もし乾宮に在れば天鼓が鳴るの異有りを主る。もし金爻子孫に化しあるいは兑卦に化入すれば、星月の異が有る。もし火財に化し父と合を為せば、虹霓の異が有る。もし火爻子孫に化しあるいは离宮に化入すれば、日月の異が有る。鬼爻が金に属する者は雷を以て断ず。鬼爻が木に属しあるいは父母爻に化する者は雨を以て断ず。鬼爻が木に属しあるいは兄弟に化する者は風を以て断ず。木鬼と世応が相冲すれば異風の変が有る。
もし震卦に当たれば、雷霆独り国初に異なり。 螣蛇鬼が震宮に在って動く者は、雷霆の異が有る。秋間夏月に雲無くして雷霆震るが如し。震卦はまた龍と為し、もし辰巳爻の上に臨みあるいは辰爻に化すれば、龍現るるを主る。震卦はまた木と為し、または木爻に臨みあるいは木爻に化すれば、樹木の異が有る。
艮は山崩を主り、応に臨めば則ち宋都有五石の陨あり。 螣蛇鬼が艮宮に在って動く者は、その年に山崩の異が有る。金に属し金に化すれば則ち石である。もし応爻に臨みあるいは六爻に在り、あるいは乾卦に化すれば、天変であり、星の化して石と為るが如し。
坤は地震と為し、刑を帯びれば則ち怀仁に二所の崩あり。 螣蛇鬼が坤宮に在って動く者は、その年必ず地震を主る。金に逢えば则有声、刑を帯びれば則ち崩裂。坤卦はまた牛と為し、もし鬼が丑に臨めば必ず牛異が有る。乾坤二卦の中に螣蛇鬼が世に臨んで動くは、乃ち人に異事有るにして物ではない。坤は乃ち純陰卦であり、螣蛇鬼が動いて玄武と相合住する者は、必ず晝晦を主る。元末に毎に多く此の異が有った。
坎が父爻に化すれば、雨血雨毛兼ねて雨土。 坎卦は天に在れば雨と為し地に在れば水と為す。螣蛇鬼が此の宮に在って動き、応爻六爻に臨みあるいは父爻に化する者は、皆雨を以て断ず。然らずんば則是れ河涸海溢の異である。もし金鬼が父に化せば当に雷雪同作の異が有る。雨血雨毛雨土は皆元末の異である。
巽が兄弟に連なれば、风红风黑及び风施なり。 螣蛇鬼が巽宮に在って動き兄に化すれば、異風が有ることを主る。宋英宗の時の赤风の如く、元顺帝の時の黑风が有るが如し。もし兄に化せず応爻六爻に臨まざれば、風を以て断ずる勿れ。是れ草木の異である。武后の時に九月梨花开くが如し。震巽二卦はまた禽鳥と為し、もし螣蛇鬼が生气爻上に在って動く者は、諸禽の異が有る。
日生黑子す、宋恭帝离象の反常を驚く。 螣蛇鬼が离宮に在って動く者は日異が有る。宋恭帝の時に日中に黑子が有ったが如し。もし応爻六爻に非ざれば則ち火異が有る。
沼に白龙が起き、唐玄宗兑金の变异に遭う。 兑は泽と為し井と為し池沼と為す。もし螣蛇鬼が此の宮に在って動く者は、当に唐玄宗の時沼中白龙乘空而起の事が有るべきである。元顺帝の太子寝殿の後ろに新たに砌めたる一井が有り、井中にも亦有龙が出て来て、火焰烁火し変化測り難かった。
發動して空亡すれば、乃ち天书の诈を験す。 以上の螣蛇鬼動が空に臨み空に化する者は、其の怪异事は虚传诈说にして、真に非ず。宋真宗の時天书下降の如し。
内卦に居臨すれば、定む黑眚の妖と成る。 螣蛇鬼が本宮の内卦に在れば、妖怪が家庭に見える。宋徽・钦の時に黑眚が掖庭に見えたるが如し。
天変の何方に在るを知らんと欲せば、須く地支を究めて分野と為すべし。 凡そ変異の象に遇わば須く何の方に見えるかと看見し、直ちに傷つくる所の方を以てこれを定む。子は齐域と為し、丑は吴域と為し、寅は燕域と為す。此の十二支の分野である。当に先ず克爻を以てこれを定め、克が無ければ刑爻を以てこれ定め、又た刑が無ければ則ち本爻を以て断ず。刑克爻が空なるも亦た本爻を以て断ず。
身が福徳を持せば、その年必ず休祥を获る。 子孫は福徳の神と為す。それは財を生じ鬼を克するを以てである。もし旺動を得れば、その年必ず良い処が有る。初爻に在れば万物吉利、二爻は百姓安寧、三四爻は官吏清明、五爻は君明るく国正しく、六爻は必ず景星庆云の瑞が有る。もし太岁に臨んで世身を生合し、あるいは世身に臨み有気なら不空、是れ皆太平の象である。
世が刑伤を受ければ、歳多く驚怪に遭う。 世は乃ち年時の主の爻である。凡そ三农百姓・五谷六畜は皆此に係る。時に得て旺相で兄鬼に臨まなければ、その年必ず意の如し。もし太岁月建日辰動爻の傷克を受ければ、その年必ず多く驚険で、故無くして自空なれば、人多く暴死す。
年豊かに岁稔るは、財福生旺にして傷無ければなり。 卦中の子孫が地を得、財爻が有気で空ならず、兄鬼の凶神が衰静なる者は、必ず豊年の楽岁である。
冬暖かく夏凉しきは、水火休囚にして助くる莫ければなり。 凡そ年時を占うには、財父二爻を以て水旱を見、水火二爻を以て寒暑を見る。もし水が死絶にあるか空地に居れば、その年の冬月必ず暖かく、火が死絶にあるか空地に居れば、その年の夏月必ず凉しい。もし刑害を加え世を克し而して生旺の地に居る者は、暑は必ず酷暑、寒は必ず严寒。世爻を克さざれば則ち物を傷つける。此の衰旺は節気を以て論ずべからざるなり。
他宫が伤克すれば、夷狄侵凌す。 他宮を夷狄と為す。他宮が無ければ則ち外卦を見る。もし来って本宮を伤克すれば、その年夷狄必ず来って侵犯する。外が内卦を生すれば必ず多く進貢する。
本卦が休囚なれば、国家衰替す。 本宮を国家と為す。本宮が無ければ則ち内卦を見る。旺相ならば国家強盛、无気ならば則ち国家衰替である。
陰陽相合すれば、定然り雨順风调。 凡そ一陰一陽の卦に遇えば、必然的に世応相生。六爻相合し、一卦の中に各々配偶が有れば、その年必ず雨順风调を主る。更に六爻安静で財福不空を得れば、必ず豊登の岁である。
兄鬼ともに亡なえば、必ず民安国泰を主る。 兄弟は乃ち克剥破败の神であり、官鬼はまた祸患灾殃の主である。二者が空亡かあるいは上卦しなければ、必ずその年国家無事、兆民安楽、六畜得宜、万物畅茂、雍熙の世を主る。
ただ天道を明らむるのみ、能く万象の森罗を知り、玄机を透徹すれば、豈に一年の休咎のみならんや。