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全 64 章中 28 章
东坡易传
大過卦(第二十八卦):沢風大過、兌上巽下
「大過」とは、棟梁が曲がることであり、往く所があるのに利し、亨る。
《彖伝》にいう。「大過」とは、大なる者が勝り過ぎることをいう。「棟梁が曲がる」のは、根本と末梢がともに弱いからである。剛が過剰でありながら中を保ち、巽順にして喜悦をもって事を行う、「往く所があるのに利し」、ここにおいて亨る。
二爻と五爻は、権柄を掌握し作用を発揮する位置である。陽が内より出で、用事の地を占めて陰を外に排斥することを「大過」という——大なる者が勝り過ぎることである。陰が外より入り、用事の地を占めて陽を内に囚えることを「小過」という——小なる者が勝り過ぎることである。「過」の意味するところは、偏って盛んで均衡を欠く状態をいう。ゆえに「大過」とは、君主が驕り横暴で臣下の補佐がない時代をいう。《易》が重んじるのは、陽が陰を制御することができて、陽が陰を欺凌し蔑むことではない。人々はただ陰が陽に過ぎることが禍いとなることを知って、どこで陽が陰に過ぎることもまた福いをもたらさないことを知るだろうか!陰を設けるのは陽を養うためであり、臣を立てるのは君主を守るためである。陰が衰えれば陽は滋養を失い、臣が弱ければ君主は護衛を失う。ゆえにいう。「大過は、大なる者が過ぎることである。棟梁が曲がるのは、本末ともに弱いからである。」四つの陽爻は棟梁である。初爻と上爻は、棟梁の依拠するところである。柔弱にして排斥されれば、託任に堪えることができず、これが棟梁の曲がる所以である。「棟梁が曲がる」、私たちは押し潰されようとしている。ゆえに「大過」の時代は、有所為に利して安住を忌む。「君主の奢侈が極まり、国家に憂患がなければ、上なる者はますます嚣张とし下なる者は堪え忍ぶことができず、災禍は指日して待つばかりである。ゆえに「往く所があるのに利し」という。往く所があるのに利するとは、有所為に利することをいう。事があれば憂患があり、憂患があれば人を用いることを急ぐ。禍患が来臨して人々が急迫すれば、君臣の勢いはやや均衡を得ることができる。ゆえにいう。「剛は過ぎて中し、巽にして説をもって行き、往く所あるに利し、ここにおいて亨る。」
「大過」の時代の意義は、なんと重大なことか!
《象伝》にいう。澤水が林木を没すること、これが「大過」である。君子はこれにより獨立して懼れず、世を遁れて悶えることがない。
初六は「懼れず」に宜しく、上六は「世を遁る」に宜しい。
初六:白茅を用いてこれに藉く。咎なし。
《象伝》にいう。「白茅を用いて藉く」のは、柔順者が下位にあるからである。
「白茅」は、初六を指す。藉かれるところのものは、九二である。茅草というのは、卑賤で貴重な物を収蔵するに足らないが、もし非常の愛玩すべき器物があれば、必ずこれを用いて藉く。茅を愛するのではなく、器を愛するのである。初六は九二に対して、強弱の勢いはそもそも懸絶しており、初六の存亡は九二の損益に足るものがない。しかし九二が上において安稳に滋養を得ることができるのは、初六の藉きがあるからである。茅を棄てて収めなければ、器は地に搁置される。初六を棄てて用いなければ、九二はみずから労働しなければならない。ゆえに孔子がいう。「茅は物として微薄であるが、その用は重大であり得る。」
本文内チャート
| 干支の組合せ | 第 1 組 | 第 2 組 |
|---|---|---|
| 天干 | 大 | 卦 |
| 地支 | 过 | 初 |
九二:枯楊に稊を生じ、老夫に女妻を得る。利せざるはなし。
《象伝》にいう。「老夫」「女妻」は、過ぐる時において互いに親しみ与えることである。
全体の卦象から見れば、「大過」は君主が驕る時代である。しかし各爻をそれぞれに分けて見れば、九五がまさに驕るべきであり、九二は陽爻にして陰位に居り、驕らない者である。盛ん極まりまさに枯れようとするとき、九二だけがかろうじて下の初六を受け入れて自己を助けさせる、これが「稊(ひこばえ)を生ず」の意味である。「老夫」は、九二を指す。「女妻」は、初六を指す。およそ人の常情として、夫が年老いて妻が年少であれば、妻は傲り夫は恭しい。妻が傲り夫が恭しければ、これは臣を用いるに難しいが君が士を屈して下すことを意味し、ゆえに「利せざるはなし」という。「大過」の時代、憂患は高亢にして応援がないことにあり、ゆえにいう。「老夫女妻は、過ぐるをもって相与するなり。」
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| 干支の組合せ | 第 1 組 | 第 2 組 |
|---|---|---|
| 天干 | 大 | 卦 |
| 地支 | 过 | 九 |
九三:棟桡(ややまが)る。凶なり。
《象伝》にいう。「棟桡」が「凶」であるのは、もはや輔けることがありえないからである。
九四:棟隆(たかし)。吉なり。他(た)あらば(すなわち)吝(なや)みあらん。
《象伝》にいう。「棟隆」の「吉」は、下において撓まないからである。
全体の卦象から見れば、すなわち「本末弱」であり、「棟梁が曲がる」状況である。しかし各爻をそれぞれに分けて見れば、上六がまさに「棟梁が曲がる」責任を負うべきであり、初六は柔弱であるが自立することができ、九二に遇うことによって撓まない。初爻と上爻はそれ自体が棟梁ではなく、ただ棟梁の依拠するところである。依拠するところが彼方にあり、「隆」と「曲」が此方に現れる。初六が下方において曲がらなければ、九四は「棟梁が隆起」する。上六が相輔することに足らなければ、九三の「棟梁が曲がる」のはそれと上六が応じるからである。九四がその応爻に専心すれば吉であり、他心あれば吝みがある。「棟梁」の「隆起」は、初六の福分ではなく、九四がその利を享受する。そして「曲がる」に及んでは、上六も参与せず、九三が悪名を負う。ゆえに「大過」の時代、智者は陽が陰の下に屈居すべきと思うが、愚者は陰が陽の下に屈居すべきと思う。
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| 干支の組合せ | 第 1 組 | 第 2 組 | 第 3 組 |
|---|---|---|---|
| 天干 | 大 | 卦 | 三 |
| 地支 | 过 | 九 | 九 |
九五:枯楊に華を生じ、老婦に士夫を得。咎なし、誉れもなし。
《象伝》にいう。「枯楊に華を生ず」、どうして久しゅうすることがあろうか。「老婦」「士夫」もまた恥ずべきことである。
盛ん極まりまさに枯れようとするのに、また花を開いて自己を消耗し、精力尽きて長久することができない。「稊(ひこばえ)」は、顛覆の後に新たに萌え出で、起始の状態に帰することである。「華(はな)」は、充盈の後に全てを绽放し、終結へと加速することである。九五は陽爻にして陽位に居り、驕奢すでに極まり、上六がその上に凌駕し、九五の力はこれを正すに及ばず、ただ災禍を加速するのみである。ゆえにいう。「老婦その士夫を得。咎なし、誉れもなし。」「老婦」は、上六を指す。「士夫」は、九五を指す。夫が壮んで妻が衰老であるのは、君主が臣子を厭棄する象徴であり、ゆえに「無咎無誉」を以て教え、この時代において禍患を免れんことを求める。「咎」とは、罪責を招く所以であり、「誉」とは、猜疑を招く所以である。
本文内チャート
| 干支の組合せ | 第 1 組 | 第 2 組 |
|---|---|---|
| 天干 | 大 | 卦 |
| 地支 | 过 | 九 |
上六:渉(かわた)りて滅頂す。凶なり。ただし咎めなし。
《象伝》にいう。「過渉」の「凶」は、咎めるに由ないのである。
「過渉」して「滅頂」に至るのは、救わんとする所があればである。形勢が救うべからざるに、徒らにその害を受け、ゆえに凶である。しかし道義の上から言えば、これは咎めるに由ないのである。
本文内チャート
| 干支の組合せ | 第 1 組 | 第 2 組 |
|---|---|---|
| 天干 | 大 | 卦 |
| 地支 | 过 | 上 |
上六 ▅▅ ▅▅ 陰(過渉して頂を滅ぼす) 九五 ▅▅▅▅▅ 陽(枯れた楊に花が生ず) 九四 ▅▅▅▅▅ 陽(棟梁が隆起して、吉) 九三 ▅▅▅▅▅ 陽(棟梁が撓んで、凶) 九二 ▅▅▅▅▅ 陽(枯れた楊に芽が生ず) 初六 ▅▅ ▅▅ 陰(白茅を藉きて用う)
四つの陽が中に集まり、二つの陰が両端に分かれて居る——これが「大過」の構造的本質である:核心は過剰に強く、基盤と末梢はともに弱い。卦全体は、両端が細く弱く、中間が太く丈夫な材木のようであり、荷重を受ければ撓むのは避けがたい。蘇軾の解釈はこの構造的特徴を捉え、爻位の関係を一種の政治哲学へと昇華させている:強勢者は自ら進んで弱勢者の支えを求めなければならず、さもなければ強勢そのものが自己滅亡の根源となる。