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全 78 章中 48 章
黄帝内经·素问
全体意訳
本篇は「大奇論」と名付けられており、その核心は、様々な異常な脈象を通じて臓腑の病変とその予後を判断することにある。古人は、脈象の浮・沈・急・緩・滑・渋などの変化が、異なる臓腑の精気の盛衰に対応し、それによって病状の展開趨勢や転帰の時期まで推測できると考えた。
肝満・腎満・肺満、皆実なれば、即ち腫と為す。 肝・腎・肺の三臓の脈象がすべて満実の状態を示すのは、邪気が充満しており、水腫を引き起こすことを意味する。💨
肺の雍は、喘にして両胠満つ。 肺気が滞って通じなくなると、喘息が起こり、両側の脇肋部が張り詰める。🌬️
肝の雍は、両胠満ち、臥せば則ち驚き、小便を得ず。 肝気が滞ると、両脇が張り詰め、横になると驚きやすく、小便の排出がスムーズでなくなる。💧
腎の雍は、脚下より少腹に至るまで満ち、脛に大小あり、髀䯒大にして跛す、偏枯を易くす。 腎気が滞ると、足元から小腹部にかけて張り詰め、小腿(ふくらはぎ)の太さが左右で相違し、大腿䯒骨の辺りが腫れて跛行を来たし、半身不随(偏枯、片側の肢体が萎縮して機能しなくなること)を発症しやすくなる。🦵
心脈満大なれば、癇瘛筋攣す。 心脈の搏動が満大であるのは、てんかん様の発作、肢体の引きつれ、筋脉の拘縮を主る。❤️
肝脈小さくして急なれば、癇瘛筋攣す。 肝脈が細小で急な場合も、てんかん様の発作、肢体の引きつれ、筋脉の拘縮を主る。🌿
肝脈騖なれば、暴に驚骇する所有り、脈至らずして瘖の若くなれば、治せずして自ら已む。 肝脈が奔馬のように急激で乱れている(騖は、脈の来たり方が急促で紊乱している様子を形容する)のは、突然の恐怖・驚愕によるもので、脈が一時的に伏して現れず、失声・失語を伴うが、このような場合は治療しなくても自然に回復する。😨
腎脈小さくして急、肝脈小さくして急、心脈小さくして急、鼓せざるは皆瘕と為す。 腎脈・肝脈・心脈がすべて細小で急であり、押し上げる力(鼓指感)がないのは、腹中の積塊(瘕、腹中に気が集まってできる塊で、時に集まり時に散じる)を主る。🩺
腎肝並びに沈むは石水と為し、並びに浮くは風水と為し、並びに虚なるは死と為し、並びに小さく弦なるは驚せんと欲す。 腎脈と肝脈がともに沈んでいるのは、石水(水腫が深く裏に在るもの)を主る。ともに浮いているのは、風水(水腫が表に偏るもの)を主る。ともに虚であれば死証であり、ともに小さく弦であれば驚病が起ころうとしている。🌊
腎脈大に急にして沈み、肝脈大に急にして沈むは、皆疝と為す。 腎脈・肝脈が大きくて急かつ沈む場合は、いずれも疝病を主る。🔥
心脈搏ち滑らかに急なるは心疝と為し、肺脈沈みて搏つは肺疝と為す。 心脈の搏動が滑らかで急なのは心疝であり、肺脈が沈んで搏つのが肺疝である。
三陽急なれば瘕と為し、三陰急なれば疝と為し、二陰急なれば痫厥と為し、二陽急なれば驚と為す。 太陽経脈(三陽)が急であるのは瘕病である。太陰経脈(三陰)が急であるのは疝病である。少陰経脈(二陰)が急であるのは痫厥である。陽明経脈(二陽)が急であるのは驚病である。☀️
脾脈外に鼓し、沈むは腸澼と為す、久しければ自ら已む。 脾脈が外に向かって鼓指しつつ沈んでいる場合は、痢疾(腸澼、古病名で、膿血を排泄するような病気を指す)を主るが、病程が長くても自然に治癒する。
肝脈小さく緩なるは腸澼と為す、治し易し。 肝脈が小さくて緩やかな痢疾は、治療しやすい。
腎脈小さく搏ち沈むは、腸澼下血と為す、血温かくして身熱ければ死す。 腎脈が小さく搏って沈むのは、痢疾による下血を主る。出血がありながら体が温かく発熱を伴う場合は予後が険悪である。🩸
心肝澼は亦た下血す、二臓の同病は治す可し。 心と肝が同時に病む痢疾も下血するが、二臓が同時に病んでもなお治療の可能性はある。
其の脈小さく沈み渋れば腸澼と為す、其の身熱ければ死す、熱見えて七日死す。 脈が小さく沈んで渋い痢疾で、熱が去らず続く場合は予後が険悪であり、発熱が七日間続けばさらに危険となる。
胃脈沈みて鼓し渋く、胃外に鼓して大、心脈小さく堅く急なるは、皆鬲偏枯なり。 胃脈が沈み鼓指して渋い、あるいは外に向かって鼓指して大きい、また心脈が小さく堅く急である場合は、いずれも膈偏枯(半身不随の一種)を主る。🫁
男子は発すること左、女子は発すること右、瘖わず舌転ずるは、治す可し、三十日起る。其の従う者は、瘖えて、三歳に起る。 男子では病が左側に発し、女子では右側に発する場合、失音がなく舌が動かせる者は治すことができ、およそ三十日で快方に向かう。もし失音している者は、三年を経て回復する。🗣️
年二十歳に満たざる者は、三歳にして死す。 年齢が二十歳に満たない者は予後不良であり、三年以内に死亡する可能性がある。
脈至りて搏つは、血衄して身熱ければ死す、脈来たること懸鉤にして浮かぶは常脈と為す。 脈が来たりて搏指が有力で、鼻出血があり体が熱い場合は予後が険悪である。脈が懸鉤のように浮かぶのが正常な脈象である。🩺
脈至りて喘の如きは、名づけて暴厥と曰う。暴厥なる者は、人と与に言うを知らず。 脈が来たりて喘ぐように急迫するのは、暴厥(突然の失神)と名付ける。患者は昏倒して人事不省となり、言葉を話せない。😵
脈至りて数の如くせば、人をして暴に驚かしむ、三四日にして自ら已む。 脈が数脈のように速く来るのは、人を突然の動悸・驚恐に陥れるが、三四日で自然に回復する。😨
脈至りて浮合し、浮合すること数の如く、一息十至以上の場合は、是れ経気の与える所の足らざりしなり、微かに見えて九十日死す。 脈が浮かんで相合い、速く数えるように巡り、一度の呼吸(一息)につき十拍以上の搏動があるのは、経脈の気が著しく不足していることであり、この脈がかすかに現れてから約九十日で死に至る。⏳
脈至りて火薪の然えるが如きは、是れ心精の与え奪わるるなり、草干れば死す。 脈が薪が燃え盛るように旺んなるのは、心の精が奪われたことであり、草が枯れる時節(晩秋)に死ぬ。🔥
脈至りて散葉の如きは、是れ肝気の虚する所なり、木の葉落つれば死す。 脈が散り落ちる枯れ葉のようであるのは、肝気の欠乏であり、落葉の時節(晩秋)に死ぬ。🍂
脈至りて省客の如く、省客なる者は、脈塞りて鼓す、是れ腎気の与え足らざるなり、懸けて枣華を去らば死す。 脈が「省客」(脈象が忽ち来て忽ち去り、客が短く訪れるような様子を形容する)のように、詰まって鼓打する程度であれば、腎気の不足であり、棗の花が咲き終わる時節に死ぬ。🌿
脈至りて丸泥の如きは、是れ胃精の与え足らざるなり、楡荚落つれば死す。 脈が泥の塊のようにまるく滑らかであるのは、胃の精の不足であり、楡の実(楡荚)が落ちる時節(晩春)に死ぬ。
脈至りて横格の如きは、是れ胆気の与え足らざるなり、禾熟すれば死す。 脈が横たわる板のように滞る(横格)のは、胆気の不足であり、穀物が成熟する時節(秋季)に死ぬ。🌾
脈至りて弦縷の如きは、是れ胞精の与え足らざるなり、病、善く言し、霜降れば死す、言わざるは治す可し。 脈が細く糸のように張っている(弦縷)のは、子宮・膀胱の精血の不足であり、患者が饒舌である場合は、霜が降りる時節(初冬)に死ぬ。言葉数が少なければ治すことができる。
脈至りて交漆の如く、交漆なる者は、左右傍に至るなり、微かに見えて三十日死す。 脈が「交漆」(脈象が漆のように絡み合い、粘りつく様を形容する)のように、左右に溢れ出る状態は、この脈がかすかに現れてから三十日で死ぬ。
脈至りて涌泉の如く、浮鼓して肌中にすれば、太陽気の与え足らざるなり、気味少なく、韭英なれば死す。 脈が泉が湧き出るように、筋肉の中に浮かんで鼓動するのは、太陽経の気の不足であり、息や味覚の衰えを伴い、韭の花が咲く頃(晩春)に死ぬ。🌊
脈至りて穢土の状の如く、按ずるに得ざるは、是れ肌気の与え足らざるなり、五色先ず見え、黒白疂く發すれば死す。 脈がくずれ落ちる土塊のように、押すと脈を感じ取れないのは、肌肉の気の不足であり、顔面に五色が先んじて現れ、黒と白が交互に現れれば死ぬ。
脈至りて懸雍の如く、懸雍なる者は、浮揣して切りて之を益々大にす、是れ十二俞の与え足らざるなり、水凝れば死す。 脈が懸雍(ぶら下がる腫れ物)のように、浮かせてみると切診するほどに大きく感じられるのは、十二の背兪穴の気の不足であり、水が氷る時節(冬季)に死ぬ。❄️
脈至りて偃刀の如く、偃刀なる者は、浮かぶは小さく急、按ずるは堅く大に急、五藏菀熟し、寒熱独り腎に並ぶ、此の如きの人坐すること得ず、立春にして死す。 脈が偃刀(伏せた刀)のようであり、浮かせると小さく急、強く押すと堅く大きく急であるのは、五脏に鬱熱がこもり、寒熱が専ら腎に併発している状態で、このような患者は座ることができず、立春の時節に死ぬ。🔪
脈至りて丸滑にして手に直せず、手に直せざる者は、按ずるも之を得可からざるなり、是れ大腸気の与え足らざるなり、枣葉生ずれば死す。 脈がまるい球のように滑らかで手に触れない。触れないとは、押しても脈を捉えられないことであり、これは大腸の気の不足であり、棗の葉が芽吹く時節(春季)に死ぬ。🌱
脈至りて華の如きは、人をして善く恐れしめ、坐臥を欲せず、行立常に聴く、是れ小腸気の与え足らざるなり、季秋にして死す。 脈が花のように(脈象が浮かんで花のように散る様子を形容する)であると、人をして恐怖しやすくさせ、座ったり横になったりすることを望まず、歩いたり立ったりする時にも常に耳を澄ませる。これは小腸の気の不足であり、晩秋に死ぬ。🌸
本篇の核心となる学術思想は、脈象と臓腑の精気の盛衰との対応関係、そして脈象による予後の判断である。
1. 臓腑の鬱実と病証の定位 冒頭で肝・腎・肺の三臓の脈が「満実」であることを綱領とし、邪気が充満すると水腫に至ることを指摘する。続いて三臓の鬱滞による各々の症状を述べる。肺が鬱すると喘や両脇の張りが起こり、肝が鬱すると脇の張り・臥位での動悸・小便不利が起こり、腎が鬱すると下腹部の張り・脚の腫れによる跛行や偏枯のリスクが現れる。これは中医における「内に有る者は、必ず外に形わる」という全体観念、すなわち臓腑内部の病理的変化が脈象と外部症状を通じて総合的に表現されるという考えを示している。
2. 脈象と病証の対応規則 本篇では脈象と具体的な病証との対応が数多く列挙されている。例えば、
これらは中医における脈により証を測り、脈により臓を定めるという診断的思考法を示している。
3. 死脈による予後判断の体系 篇末では各種の「死脈」の形と、その想定される死亡時期が多く述べられている。例えば「浮合して数、一息の十至以上」「火薪の燃えるが如し」「散葉の如し」「省客の如し」「丸泥の如し」などがあり、それぞれ異なる臓腑の精気の衰竭に対応するとされる。このような脈象の形態と季節・景物の変化を結びつけて予後を判断する方法は、中医固有の「人体は天地と相応ず」という理念を体现している。すなわち、臓腑の精気の消耗の程度が自然界の季節変化と連動するため、対応する季節に応じて発病または死亡すると考える。
4. 男女の左右の差異と年齢の要素 本篇では偏枯について、「男子は左に発し、女子は右に発する」場合は予後が良いとされ、「年が二十歳に満たない者は」予後不良と述べられており、疾病の予後に対する体質・年齢・性別の要因の影響に関する古代中医の素朴な理解が示されている。
裏付けが可能な部分:
歴史的限界と妥当に捉えるべき部分:
関連概念:
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